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見出し画像 小説
太陽竜のゾラ

2023/06/03


赤い雪の降る、アキハバラ。ドラゴンによって滅ぼされた遠い遠い未来の世界で、一人の少女と、一人の少年が出会う。少女の名はノゾミ。人々が恐れる外界を冒険する、風変りな少女。少年の名はゾラ。人々が恐れるドラゴン、そのもの。だが、ゾラが人間との共存を望むドラゴンであることを知ったノゾミは彼に協力を申し出る。

 今日もアキハバラには赤い雪が降る。かつて電気街として栄えたこの地も、今やすっかりとその面影を無くし、真っ赤に染まっている。空を見上げれば、陰鬱とした深紅の雲が空中を覆う。

 私は顔に密着するマスクの中で小さく溜息を吐きながら、荒廃した町を歩いていく。この街が反映していたころの姿を、私は知らない。私が生まれた時にはこの街は既に滅んでいた。ほど近い居住区であるウエノ・ベースで生を受けた私は、近くの町を巡っては、この星が賑わっていた頃の面影を探して、想像する。

 古い時代には、どんな楽しいことがあって、そこに私がいたらどんな風にそれを楽しんだのだろうって。

 もうこの星には、わずかな数の人間しかいない。この星に突然降り始めた赤い雪は、世界を覆い尽くし、この星から生命の呼吸を奪った。代わりにこの星に跋扈し始めたのは、人ならぬ、いや、およそ元のこの星の生物とは思えぬ怪物ばかり。人々はそれらを、かつての伝説上の生物になぞらえてドラゴンと呼んだ。


 多くの人々は赤い雪を、そしてドラゴンを恐れて、居住区の外に出ることはない。だけど私は、あまり赤い雪への恐怖感がなかった。ドラゴンに関しても実際に見たことがなくて、恐ろしい存在であることは知っているが、実感もなく、それに私が生まれてから一度もこの近辺にドラゴンが現れたことがない。そんな存在を恐れる必要を、私は感じなかった。

 ふらふらと歩いていると、やがてすっかり老朽化し崩れかけのニュー・アキハバラ・ラジオホールに辿り着いた。この街の象徴だったこの建造物も、今やゴーグル越しにも分かるぐらい赤く染まっている。

 私はその建造物を何となく見上げていると、その屋上に何かの影があることに気づく。間違いない。人影だ。私は驚いて目を見開く。その姿は少年のようだった。だが、私が驚いたのは屋上に人がいたことでも、それが少年だったことでもない。少年だと分かったのは、ゴーグルとマスクをしていなかったからだ。この赤い雪の中、ゴーグルもマスクも無しで外を出歩くなど、本来は自殺行為なのだ。

 そう思った瞬間、人影はビルからフッと飛び降りた。飛び降り自殺!? 慌てて駆け寄ろうと一歩踏み出したが、駆け寄ったところで受け止められるはずなど無いと気づき、驚きで足がすくんだこともあり、それ以上駆け寄れなかった。

 だが、私の驚きはこれでは止まらなかった、少年の身体が空中でまるで何か空気の壁にぶつかったかのように震えると、彼の身体は落ちながらあり得ない変化を始めた。

 彼の手足がまるで風船のように肥大すると、指先からは鋭い爪が生え、彼の皮膚が黄色く変色したのだ。更に背中からぶわっと、まるでマントのように何かが広がる。見ればそれは薄い皮膜による翼だった。

 彼はすぐに風を捉え、翼を一つはためかせた。そして空中でバランスを取り、姿勢を整えると、翼で勢いを殺しながら地面に降り立った。といっても、一人の人間が高い場所から降り立ったその衝撃は、その短い動作で抑えられるものではなく、積っていた赤い雪と、がれきやほこりが宙を舞い、私の視界を奪った。

 私は汚れたゴーグルを腕で拭い視界を確保する。ゴーグル越しに私が見たのは、異形の手足で着地の衝撃に耐えた少年の姿だった。

 異形の手足は、空中では分からなかったが、よく見ればそれは黄色い鱗で覆われている。人間離れしたその手足と、翼。しかし、それ以外の体躯は人そのもの。しかし、黄金色の短髪に、赤い瞳はどこか私の知る人間像から離れていて、彼の異質性を私に強く印象付けた。その姿を見て、私は思わず言葉を漏らした。

「ドラゴン……!?」

 私の言葉に、目の前の少年ははっと反応し、屈んだ姿勢から立ち上がると、首を左右に振ってこきこきと鳴らすと、私の目を見ながら話しかけてきた。

「君、このあたりに住んでるの?」

「え、えぇ……」

 私は彼の問いよりも、彼の容姿が気になり、とっさに素直に答えてしまった。ぱっと見た外見は、私と背丈があまり変わらないごく普通の少年だ。歳も私と同じぐらいだろう。人間として考えれば、の話だが。

「じゃあさ、この辺りのドラゴンが、どこに住んでるか知らない? 全然見かけなくてさ」

「え? ……この辺りに、ドラゴンは住んでないわ」

 私の答えに、少年はきょとんとした表情を浮かべた。どうもこの辺りにドラゴンがいると思い込んでいたようだ。

「え、ドラゴンいないの?」

「いないわ」

「え、全く?」

「全く」

「え、え、いつから?」

「ずっと」

「え、え、え? ……え!?」

「そんな反応されても、こっちが『え?』という感じなのだけれども」

 少年は更に小さな声で「そんなはずは……」と呟きながら、肥大したその大きな腕を組みながら、納得いかない表情を浮かべた。そんな様子の少年に、私は一つつばを飲み込むと、恐る恐る気になっていたことを切り出した。

「一応、一応聞くのだけれども、貴方、もしかして……ドラゴン?」

「……そう見える?」

「その手足と、翼は、そう見えるわ」

「だよねー」

 にへら、と少年はちょっと照れたような反応をする。というか、何故照れるのだろうか。私はさっきから、足が震えているというのに。

 私はドラゴンという存在に恐怖を感じていない。それは事実だ。だけど、いざこうして異質の存在を目の当たりにすると、言いようのない焦燥感がこみ上げてくる。今目の前にいるのは、かつてこの世界を、人間を、滅ぼしかけた存在。ドラゴンという存在を再度頭の中で定義する。

「そう、確かに、僕はドラゴンだ。でも安心して。僕は人間を襲わない」

「……襲われるとは思ってないわ。するのであれば、最初から私を襲っているはずだもの。それをしないということは、貴方は私を襲わない」

「分かってくれてうれしいけど、だとしたら君はどうして、怯えた様子なの?」

「人間は誰だって、ドラゴンを見れば怯えるわ」

「だとしたら、どうして逃げ出したりしないの?」

「……私はそういう人間だし、出会ったのが貴方の様な、そういうドラゴンだったから、かしら」

「……君、僕と同い年ぐらいなのに、随分と難しい言い方考え方するんだね。いくつ」

「15……いや、私のことなんかどうでもいいんじゃないかしら」

「僕は14。やっぱり同じぐらいだね、よろしく」

 そう言って彼は鋭い爪が光る大きな手を差し出してきたが、何がよろしくなのだろうか。私にとっては何もよろしくないわけで。私は握手に応じずに彼に背を向けながら強引に話を差し戻した。

「この辺りでドラゴンを探しているなら、見当違いだと思うわ。さっきも言った通り、この辺りでドラゴンの目撃例は全く存在しないわ。少なくても私が生まれてからは一度も」

「おかしいな……あるドラゴンの種族がこの辺りを拠点に生活しているって教わったんだけど」

「いつの話かは分からないけども、もしかしたらそのドラゴンはもう拠点を変えたんじゃあないかしら? ウエノ・ベースが出来てからしばらく経つはずだし、そのようにドラゴンが多い地帯なら、わざわざ拠点にしないはずだもの」

「まぁ、確かにその通りだとは思うけど」

 少年はふに落ちないという表情で、考え込んでしまった。私自身、彼に対する恐怖心と警戒心が少し薄れて、マスクの内側で小さなため息を吐くと、彼に別の問いを投げかけた。

「話が行ったり来たりして申し訳ないけれども、貴方を見ていて、私の考えるドラゴンのイメージと随分とだいぶ違うなと感じたわ。私はドラゴンって」

「人間を滅ぼした元凶。地球を破滅に追いやった諸悪」

「……そうね、そこまで悪くは思ってはいないけど、おおむねそうだわ」

「昔のドラゴンが悪かったらしいからね。まぁ、僕にとっても君にとっても、”ひい”がいくつつくか分からないぐらいのおじいちゃんおばあちゃんの世代の話だし、僕としてはその頃のドラゴンの所業を持ちだされても、困るわけだけども、ね」

「最近のドラゴンはみんなあなたの様なドラゴンなのかしら? 姿も、さっき変身する前は、人間そのものだったし、今も手足と翼以外は人間と変わらないわね」

「そうだと、いいんだけどね。今も悪いドラゴンは多いさ。あいつらは人間を、いや、ドラゴン以外の生物を駆逐し、ドラゴンだけの星にしようとしている。だから、人間は今でもドラゴンを恐れる。……僕はそんなドラゴンの考えが嫌でね、人間と、他の動物たちと、共存の道を作りたいって思ってさ。だからこうして人間の姿を得て、旅をしていたわけ。今は手足と翼だけだけど、ちゃんと全身ドラゴンの姿になれるよ? ……そして、その共存への道を共に作って行ってくれるはずのドラゴンが、この辺りに住んでいたはずなんだけど……参ったなぁ」

 彼の純粋で真っ直ぐな言葉に、私はすっかり彼への警戒を解いた。元々ドラゴンへの恐怖心が無かった私にとって、彼の様なドラゴンがいるという事実は、割とすんなりと受け入れることが出来たのだと思う。

「貴方、さっきのようにもう一度、人間に完全に化けてくれるかしら?」

「え? どうして?」

「私の居住区、ウエノ・ベースに来るといいわ。大人たちが何か知っているかもしれないもの。聞いてみるといいわ」

「いいの? でも、怪しまれるんじゃ……」

「そうね、怪しいと思うわ。この赤い雪の中、肌を露出させて、ゴーグルもマスクもしない人間だなんていないもの。私の予備を貸すわ」

 私は、持っていたカバンの中から予備のゴーグルとマスクを取り出し、彼に投げた。

「……あとは、そんなノースリーブじゃおかしいし、靴も履かないといけないけど、さすがにその予備は無いし……」

「大丈夫。僕も普段、雪が煩わしいから、フードの付いたマントを羽織ってるし、靴も普段は履いてる。ビルの屋上に置いたままだから取ってくるね」

 そう私に告げると、彼は足に力を込め、翼を大きく広げた。そしてそのまま飛び上がるのかと思ったが、私の予想に反して彼はその強力な足の筋力を活かして、ニュー・アキハバラ・ラジオホールを駆け上がっていった。飛び上がらなかったのは予想外けれども、やはりその身体能力は人のそれとは比較にならないことを改めて感じさせられた。

 しばらくすると、最初に見た時と同じように彼はニュー・アキハバラ・ラジオホールから飛び降り、翼を上手くはためかせて力強く着地した。

 しかし今度は、辺りのほこりが止んだ時には彼の手足は元の人間のものに戻っており、翼も消えていたのだ。

「もうちょっと待ってて。今靴履くから」

「えぇ、大丈夫よ」

 彼はその通り靴を履いて、マントを羽織り、私の渡したゴーグルとマスクをつけると、「お待たせ」と言って目を細めた。

「じゃあ、案内するわ……あ、まだお互い、自己紹介していなかったわね。私はノゾミ。ノゾミ・ローニー。貴方は?」

「僕はゾラ。ゾラ・ブリズ。よろしく、ノゾミ」

「こちらこそ、ゾラ」

 そうして私たちはアキハバラから私の居住区ウエノ・ベースへと向かった。崩れかけた高速鉄道ヤマノテライン跡の高架沿いに進み、更地と化したアメ・ストリートを抜けると、見えてくるのは大きなドーム状の施設。かつて公園だった場所を中心に建設された、この地区最大の居住区、ウエノ・ベース。この巨大な施設に、今はもう私を含め800人程度しか住んでいない。

「今まで色々な居住区見てきたけど、ここが一番大きいや」

「そうだと思うわ。私も、ウエノ・ベースが一番大きいと聞いているもの。次に大きい、ヒツジガオカ・ベースの3倍はあるんじゃあないかしら」

 居住区を見上げながら私たちはそんな会話をかわしていた。やがて居住区に入り、厳重なセキュリティを一つ一つ解除して、私達はウエノ・ベースの中へと入っていった。

「さっきの口ぶりだと、居住区に入ったのは初めてじゃあないのね。というか、そうよね。人間の服を持っているのだから」

「うん。小さいころにドラゴンの集落を離れてからは、いくつかの小さな居住区を巡ってきたからね」

 そしてエアシャワーを潜り抜け、赤い雪で汚れた服を洗浄すると、私たちは完全に居住区の中へと入った。私達はフードを上げ、ゴーグルとマスクを外した。ふと見ると、ゾラが私のことをじっと見つめていることに気付いた。

「どうしたのかしら?」

「いや、随分と髪短いんだなぁと思って」

「ああ、これ?」

 私は自分のベリー・ショートの髪に触れながらゾラを見て答えた。

「ほら、髪が長いと、外に出るときに結ったりするのが面倒でしょう? 私、外に出ることが多いから、この髪形が一番楽なのよ」

 私がそう答えると、ゾラは「ふぅん」と小さく頷いた。普段その苦労が無いゾラには、いま一つピンと来ていないようだった。

 そんなゾラを連れて、私は居住区内の一室へと向かった。そしてその部屋の前で私は一つ深呼吸をすると、部屋の中にも聞こえるように少し大きな声で呼びかけた。

「ノゾミです。入ります」

「入りなさい」

 返事を確認すると、私はドアに触れる。自動的にドアが開き、私はゾラを連れて部屋の中へと入っていく。部屋の中には一人の男性が、ディスプレイを難しい顔で睨みつけていた。彼は私の方を振り返ることなく、私に話しかけてきた。

「ノゾミ、また一人で外に出ていたようだな」

「説教なら後で聞くわ、パパ。そんなことのためにここに来たわけじゃあないんですもの」

「そんなことって、お前は……!」

 男性、つまり私のパパは怖い顔のまま私の方を振り返った。その時点で初めて私の後ろに一人の見なれない少年がいることに気付いたようだった。

「そちらの少年は?」

「彼はゾラ・ブリズ。外で出会ったの」

「外で?」

「ええ。ゾラ、この人が私のパパ。このウエノ・ベースのことや、近隣のことなら一番詳しいわ」

「ゾラ・ブリズです。はじめまして」

「こちらこそ。……ノゾミ、どういうことか説明をしてほしいのだが」

 彼の強い口調での要請に、私は返事をしなかった。

「ゾラ、聞きたいことがあるのでしょう? この人に聞くといいわ」

「え、うん」

 私とパパのとげとげしいやり取りに、ゾラは少し戸惑った様子だったが、一歩前に歩み出ると、恐る恐るパパに問いかける。

「実は、この近隣のドラゴンについてなのですが……」

「この辺りにドラゴンはいない。もうずいぶん昔から、な。ノゾミから聞いていないのか?」

「聞きました。でも、僕はこの辺りにドラゴンが住んでいるという話を聞いて、そのドラゴンを探してここにやって来たんです。今、そのドラゴンがいないなら、いついなくなったのか、どこに行ってしまったのか……」

「言った通り、ここにはドラゴンはいない。それが答えであり、それ以上の答えは無い。これで話は終わりだ」

「ちょっと! そんな言い方は無いんじゃあないかしら!?」

 私はゾラを押しのけるようにしてパパの前に歩み出る。

「何も間違った事を言っているわけではないんだ。それ以上の答えが出来ないのだから、それ以上彼にとどまられても、お互い無益だろう」

「彼は、そのドラゴンを探して旅をしているのよ! 少しは親身になってあげたっていいじゃない! 例えば、ドラゴンが生息していた痕跡がないかとか……あ、あと、ドラゴンって人間に変身できるんでしょう? だったらもしかしたら、人にまぎれて暮らしているかも……」

 そこまで私が言いかけた瞬間、パチン、と軽い音と共に、私の左頬に痛みが走り、私の視界がぶれた。一瞬、何が起きたのか分からなかった。右手で平手を振り抜いたパパの姿を私が見たのは、その瞬間から数秒経ってからだった。パパは一瞬だけしまったという顔をしたけれど、すぐに難しい顔に戻り、一つ咳払いをした。

「勝手な憶測で、勝手なことを言うんじゃあない。ゾラくんが探しているドラゴンはここにはいない。それ以外に答えは無いんだ」

「……何よそれ……パパ、ゾラがどんな思いでドラゴンを探してきたと思っているの!?」

「お前は、私がどんな思いでお前を育ててきたと思っているんだ!?」

「……パパに頼んだ私が間違いだった……ゾラ、行こう。この人にこれ以上何を話しても無駄だわ」

「ちょ、ちょっと、ノゾミ!」

 私はゾラが止めようとするのも気にせず、ゾラの腕を引っ張って部屋の外へと出る。そして一分ほど歩いてパパの部屋から程なく離れた場所で歩みを止めて、掴んでいたゾラの腕を離した。

「……ごめん、力になってあげようと思ったのに……パパ、私が相手だといつもあんな感じだけど、ゾラが相手なら……私以外が相手なら、もっと優しく答えてくれると思ったんだけど……ごめん」

「ノゾミが謝ることじゃないよ。僕の力になってくれようとしたんだし。何も悪くないよ」

「でも……」

「それよりも、僕は君のお父さんの言葉が気になったな」

「パパの、言葉?」

 落ち込む私の横でゾラは腕を組みながら考え込んでいた。

「結局、君のお父さんは最後まで、『過去にここにドラゴンがいたこと』については、否定しなかった。勿論、肯定もしていないけど。あくまで、『今この辺りにドラゴンがいない』こと、それが答えとだけ言っていた。そしてノゾミが、ドラゴンが人間に変身して紛れ込んでいる可能性を示唆した瞬間、怒りだした。それがどういうことなのか……」

「……パパは、人間に紛れ込んでいるドラゴンのことを、知っている……!?」

「もし本当に知らないのなら、あの場で君の言葉を遮る必要なんて、無かったはずだしね。まぁ、それも憶測でしかないけど」

「じゃあ、やっぱりパパに問いただした方がいいんじゃあないかしら?」

「いや、これ以上聞いても、きっと何も教えてくれないと思う。でも」

 ゾラはそう言って、一つ息をついた。

「でも、その憶測だけでも、全く手がかりが手に入らないことに比べたら、十分な収穫だったと思う。ありがとう、ノゾミ」

「……そう言ってもらえると、少し気持ちが落ち着いたわ」

 私はゾラに微笑みかけた。つかえていた何かが、すっと消えていくような、すっきりとした気分だった。

「でも、それにしたって、手がかりが無いのと大きく変わらないわ。これからどうするつもりなの?」

「うーん、この居住区の人々に片っ端から『ドラゴンですか?』なんて聞くわけにはいかないからね。困ってはいるけど。何か考えなきゃいけないから、さっきから考えてはいるけど、妙案が出てこなくてね。向こうから、『ドラゴンですよー』って言って出てきてくれれば世話は無いのだけど」

 ゾラがそう言って笑った瞬間、突然の轟音が辺りに響き渡り、激しい震動が私たちを襲った。私はバランスを崩しかけ倒れそうになるが、とっさにゾラに抱えられた。すると程なくけたたましいサイレンが辺りに鳴り響き始める。

「ノゾミ、これは一体!?」

「わからない、私もこんなこと、初めてだわ!」

「音がしたのは、外の方だ! 行ってみる!」

「まって、私も行くわ!」

 私は急いでゴーグルとマスクを手に取り、身につける。ゾラはそれらを付けることなくそのままの姿で居住区の外へと飛び出した。私も彼に続いて、外に出る。

 そんな私たちが目の当たりにしたのは。

「ドラゴン……!?」

「あぁ……間違いない」

 黒い鱗で覆われた皮膚。鋭い爪を持つ四肢。大きな翼。強固な顎。トカゲにもよく似たその生物は紛れもなくドラゴンそのものだった。

「これが、ゾラの探していたドラゴンなの!?」

「いや……違う、こいつは僕が探していた奴じゃない……! それにこいつ、居住区を破壊しようとしてる!」

 ゾラはドラゴン。それを私は知っている。そして、居住区を破壊しようとしている目の前のドラゴンに、本気で怒りを抱いている。疑っていたわけではないけれど、この時私はゾラが、本当に人間と共存を望んでいるドラゴンなのだと、確信をした。

「ノゾミ、下がっていて……僕が、止める!」

「止めるって……危ないわ!」

「僕だって、ドラゴンだ! 僕にしか止められない!」

 ゾラはそう言って私に自分の荷物を渡し、私の制止を振り切ると、ドラゴンに向かって駆け出した。その瞬間、彼の身体が少しづつ変化を始める。それはさっきニュー・アキハバラ・ラジオホールで見た変化と似てはいるが、その過程は全く別のものだった。

 彼の顔がにわかに歪み始めたかと思うと、彼の鼻先が前へと突き出す。その顔は黄色く変色を始めていた。遠くて分かりにくいが、鱗が覆ったのだろう。彼の身体は徐々に肥大していく。それも、手足だけじゃなくて頭も含めて全身が。

 黄金色の髪は長く伸び、たてがみへと変化する。彼の着ていたボロボロのノースリーブとズボンは、縫い目から簡単に破れ、すぐに彼の前身があらわになる。しかし既に彼の前身には黄色い鱗が多い、長い尻尾が生えていた。手足の指先から鋭く黒い爪が生え、彼の手足は人のそれと大きく異なる形へと変化する。そう、それはもう手足じゃない。獰猛なドラゴンの、前足と後足だ。彼は二本足で走るのをやめ、四つの足で地を駆け、勢いをつける。

「ギャオォォォォウッ!」

 大きな翼をはためかせ、ドラゴンが宙を舞い、雄たけびを上げた。居住区の周りの金属が共鳴してビリビリと鳴る。私の付けているゴーグルも、微かに震えた。あれが、ドラゴン。あれが。

「ゾラの、本当の姿……!」

 黄色い鱗に覆われた大きなドラゴン。いや、ドラゴンとして大きいかどうかは別だ。彼が挑もうとしている黒いドラゴンは、彼よりも更に一回りも二回りも大きい。ゾラがまだ子供だからなのか、或いは個体差なのか。ともかく、それでも人間の私に比べたら、今のゾラは随分と大きい。

「ガァァァッ!」

「グウォッ!?」

 黄色いゾラ・ドラゴンは黒ドラゴンに爪を立て、相手の皮膚に食い込ませる。突然の攻撃に黒ドラゴンはその場でよろける。黒ドラゴンは体勢を立て直すと、ゾラ・ドラゴンを睨みつける。ゾラ・ドラゴンもまた四本の足で着地し、自らよりもはるかに大きい黒ドラゴンを睨み返した。

 すると二匹のドラゴンはそのまま戦いを続けずに、にらみ合いを始めた。そしてそれと同時に突然、私は耳に違和感を感じた。今まで感じたことのない程の、強烈な耳鳴り。

「何、これ……!?」

 私は思わず耳を押さえる。しかし、それでも耳鳴りは収まらない。しかし、その耳鳴りに合わせて何かが聞こえてくることに気付いた。まるで、何かの話声。私は耳鳴りで集中が途切れそうになりながらも、神経を尖らせて、その話声を聞き取ろうとする。そうすると、確かに何かが話す声が聞こえてきたのだ。

『……様こそ、どうして人間を守ろ……ラゴンの面汚しめ……』

『……げんは滅ぼすべきじゃな……の道は必ずある!』

 私は、後から聞こえてきた声に思わず目を見開き、目の前のゾラ・ドラゴンを凝視した。後から聞こえてきたのは、間違いなくゾラの声だったのだ。ドラゴンに変身したはずの、ゾラの声が聞こえてきたのだ。しかし、さっき二匹のドラゴンは猛々しい咆哮を上げていた。とても人の言葉を話せるとは思えない。だとしたら、何故?

『……話しても無駄なら、僕がお前を止める!』

『お前の様な、弱いドラゴンに何が出来る? ……それに、俺の目的は、"今"居住区を壊すことじゃない』

『"今"じゃない……? どういう……!?』

「おぉぉぉっっっとぉぉぉ、ドラゴンちゃん達ぃぃぃ、そこまでよぉぉぉ!」

 耳鳴りの中で微かに聞こえる、ゾラと誰かの会話が急に途切れた。それよりも大きな声で、やや低い女性の声が遮ったのだ。私が辺りを見渡すと、声の主と思われる人物が二匹のドラゴンと、居住区の間に立っていた。ゴーグルとマスク、フードで顔が隠れていて分からないが、身体は随分と細く見えるから、きっと女性で間違いないだろう。

「ドラゴンちゃぁぁぁん! 人間に害をなす、怖い怖い"二匹"のドラゴンちゃぁぁぁん! この"ドラゴンハンター"が来たからにはぁぁぁ、もう居住区を壊させないわよぉぉぉ!」

 随分と癖のある喋りのその女性は、細身の体に合わない多数の重火器を抱え、その重さをモノともせずに素早く走り出すと、辺りの廃墟となったビルを利用して跳ね上がり、いくつもの銃弾を二匹のドラゴンへと放った。

 しかし、その多くは黒ドラゴンと戦うために居住区を背にしていたゾラ・ドラゴンへと命中してしまう。

「グギャウゥゥゥッ!?」

「ゾラ!」

 私は、銃弾を放った女性の元へと慌てて駆け寄る。まだ彼女は空中にいて、自由落下している途中だった。彼女の落ちるポイントを見極めながら、私は急ぐ。

 彼女は赤い雪の上に、いとも簡単に着地を遂げる。着地の衝撃が、まるで無いかのような軽い身のこなし。多数の重火器を背負っているとは、とても思えなかった。

 私は驚きながらも、必死の思いで彼女に語りかけた。

「ちょっと待ってください! どこのどなたかは存じませんが、あの黄色い方のドラゴンは、居住区を襲う悪いドラゴンじゃあないんです! 黄色い方は、攻撃しないでください!」

「あらぁ? あらあらぁ? 私に意見しちゃう感じなのかしらぁ? 子猫ちゃん」

「っ! 何なの貴女!」

「何って、ドラゴンスレイヤーよぉ。貴方達居住区の人たちを、助けて上げようとしてるのよぉ。分かったら、下がっててちょうだい」

「黄色い方を攻撃しないって約束してくれるまで、下がりません!」

 私自身、強情だと思ったその言い方に、目の前の女ドラゴンスレイヤーがギリと奥歯をかみしめた。その時、また耳鳴りが襲い、何かの話声が聞こえてくる。それも、さっきより鮮明に。

『おい、エーナ! 何をしている! この黄色いの捕まえろ!』

「分かってる! 黙ってろ!」

 私は、驚いた表情を浮かべていた。目の前の女ドラゴンスレイヤーが、まるで私の耳に聞こえる声に返事をしたように、大きな声を上げたのだから。彼女はしまったという表情を浮かべながらも、すぐに穏やかで癖のある口調に戻る。

「急に怒鳴ったりして。ごめんなさいねぇ、貴方が黄色い方を応援したいっていうのはわかったわぁ。だけど、あの黄色いのもドラゴン、人間の敵よぉ。お願いだから、黙っていてちょうだいねぇ」

「嘘」

「嘘ぉ? 何がかしらぁ?」

「……貴女、私の言葉にどなったんじゃあないわ。貴女が怒鳴った相手は、あの黒ドラゴンなのでしょう……!?」

 私の問いかけに、今度は女ドラゴンスレイヤーが驚きの表情を浮かべたが、その表情はすぐに気味の悪い笑みへと変わった。

「私が、あのドラゴンと話をしたみたいに言うのねぇ。何か根拠があるのかしらぁ?」

「……私には、聞こえているんです、ドラゴンの声が」

「へぇ、そう」

「貴女にも、聞こえているのでしょう……!?」

「ふふ、ふふふ、そうよぉ、聞こえているのぉ。ふふ、ふふふ」

「な、何がおかしいんですか!?」

 女ドラゴンスレイヤーの不快な笑い声に、私は思わず声を荒げた。しかし、彼女は変わらぬ調子で話を続けた。

「いや、貴女ね、気づいていないのでしょう? 自分が、何でドラゴンの声を聞けるか、その理由に。そう、自分の正体に」

「私の、正体……!?」

「そう……こういうことよぉぉぉ!」

 瞬間、私には何も出来なかった。目の前の女ドラゴンスレイヤーが、取り出した刃物で私のゴーグルも、マスクも、フードも、マントも、瞬く間に切り刻み、私の肌が雪に触れる次の瞬間まで、あまりにもあっという間で、私は抵抗することすら出来なかった。

「―――ッ!?」

 声にならない声が、腹の底から湧きあがった。赤い雪に触れれば、生物は死ぬ。そのことはこの世界に住む人間が小さいころから教えられてきたこと。そして今、私は赤い雪に触れた。

 私は、死んでしまう。はずだった。

「……勿論貴女も知ってるでしょうけどぉ、赤い雪はぁ、即死性の毒を含んだ雪よぉ。生物はものの数秒も耐えられず、問答無用で血を吐いて、倒れるわぁ。……貴女が雪に触れて、何秒経ったかしらぁぁぁ?」

 彼女の言うとおりだ。私は、死んでいない。どころか、血を吐いて倒れることもない。私の頭の中はパニックに陥っていた。赤い雪を触れてしまったショック。その赤い雪を触れてもしなかったショック。命があることに、感謝も、喜びもない。

 今、私が当たり前のように考えていた大前提が崩れようとしているのだから。

「これも、勿論知っているでしょうけどぉ、この星で、今この赤い雪への耐性を持つ生物って、たった一つだけ、存在しているわよねぇ? そう、貴女の目の前に二匹もいるんだから、答えは難しくないわよねぇ」

 そうだ。でも違う。私は違う。私は。

 何、何これ。何が起こっているというの? 私が、私が何ですって?

 無意識のまま、無我夢中で短い髪の毛を掻きむしる。頭の中から、自分が導き出してしまった答えを引きずりだしたくて、拒絶したくて、私は、必死にもがいた。

「そして、これは知らないでしょうけどぉ、ドラゴンの声はねぇ、ドラゴンにしか聞こえないのよぉ? そう、つまり、貴女は……」

「違う、違う、私は、わた……私は……!」

「違わないわぁ、貴女は」

 言わないで、言わないで、言うな! それを言われた瞬間、私は私でいられなくなってしまう! その恐怖で私の表情はゆがんでいたが、女ドラゴンスレイヤーはそれさえ愉しんでいるようにさえ見えた。

 そして、彼女は、優しく、ゆっくりと、嬉々として、残酷に、一つの生物の名を告げた。

「ド・ラ・ゴ・ン」

 私の中で、溢れだすものをせき止めていた何かが崩れ去った。決壊したダムから噴き出す水のように、私は自分の身に起きるあらゆることを、拒絶できなくなっていた。わかっている、分かってしまっている。私の身に起きようとしているあらゆることとは、変化だ。私が、私の身体が、私でなくなろうとしているんだ。

「いや、いやぁぁ!」

 叫び声を上げても、誰も助けてくれない。ぴしぴしと音を立てる骨肉がなお、私の気を狂わせる。内側から、外側から、何か強いもので押されているような、形容しがたい痛みが私を襲う。

「がっ、うぅぅ……!?」

 涙で滲む自分の目で、恐る恐る自分の身体を確かめる。……それは許し難い光景だった。私の目線の先にある、私の手。それが少しづつ、少しづつ大きくなっていき、それと同時に親指が真逆の方へとひしゃげ、短くなっていくのだ。その手の甲は、何かで覆われ始めていた。涙でよく見えず、初めは鱗かと思ったが、すぐにそれが白い毛であることに気づく。

「何、どう、いう……こと……!?」

「あらぁ、おしゃべりする余裕があるなんてぇ、意外とタフなのねぇ。普通は、変化のショックで気絶しちゃうのよぉ。見込みあるわねぇ、貴女」

 女ドラゴンスレイヤーの嬉々とした言葉に、私は狂気さえ感じた。駄目だ、この女のそばにいては、どうにかなってしまう。私は痛い身体に鞭を打つように、変化し始めた四肢を動かしながら、這いずるようにしてその場から逃げ出した。

「ふふ、ふふふ。すごいタフネスねぇ。でも、冷静な判断は出来ないみたいねぇ。逃げられるはず無いじゃない。悪いドラゴンちゃん」

 惑わされるな、惑わされるな。私は必死に自分に言い聞かせる。今自分の身に起きていることは、真実じゃない。いや、全身の痛みから気づいてはいる。私の手は既に、手じゃなくなっていることぐらい。足が、皮膚が、顔が、変貌を遂げてしまっていることぐらい、気づいているのだ。着てた服が、自らの肥大で破れてしまったことも、お尻からは今まで無かったはずのものが生えていることも、分かっているのだ。その「分かってしまったこと」から逃げ出したくて、現実から逃げ出したくて、私は現実へと戻ろうとしていた。ただひたすらに、自らの変化を否定し続けた。

「はぁ、はぁ、ぐ、グゥ……ガ、ギュゥゥッ……!?」

 だが、その最中に、心臓と喉に、耐えきれないほどの痛みを感じ、私は思わず身体をねじらせて、仰向けになってしまう。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。逃げ出さなきゃ、この変化から逃げ出して、人間に戻らなきゃ。焦れば焦るほど、もがけばもがくほど、私は、私の身体は、変化に順応していく。

 私はもう一度、勇気と力を振り絞って逃げ出そうと身体を起こして、立ち上がろうとする。しかし、私の身体はすでに、完全なほどに、哀しいぐらい自然に、四本の足でその場に立ってしまったのだ。

 そして、気味が悪いほど伸びた首が、私に自らの変わり果てた姿を、その目に焼き付けることを、可能にしてしまっていた。

「グ、グォォォォッッッ!?」

 信じたくなかった。全身を覆い尽くす、白く、長く、柔らかい毛並みも。自分が四本足で地に立っている事実も。指先から伸びる鋭い爪も。背中から生えた鳥の様な大きな翼も。長く伸びた尻尾も。思わず発してしまった、甲高い獣の鳴き声も。それら全てが、私の身体なのだという事実を、信じたくなどなかった。

「ふふ、ふふふ。現れたわねぇ、悪いドラゴンちゃん。どうかしらぁ、初めて自分の本当の姿に御対面した気分は? 何なら、しっかりと見せて上げましょうかねぇぇぇ!」

 そう言って女ドラゴンスレイヤーが手を高く掲げると、急に辺りにすさまじい冷気が漂い始めた。何が起きているのか分からず、私は慣れない身体でおどおどしていたが、すぐに女ドラゴンスレイヤーの魂胆が見えたのだ。

 目の前に現れたのは、巨大な、しかし薄い、氷の壁。居住区を背にして、私の目の前にそびえたっている。……そう、私は否応なしに、見ざるを得なかった。氷の壁に映る、自らの変わり果てた顔を。私の面影などどこにもない、一匹のドラゴンの顔を。

 長い鼻先。飛び出す鼻孔。身体と同じように顔中を覆う白い毛並み。宝石のように輝く、青い瞳。頭から突き出した、一対のツノ。不安と、戸惑いと、恐怖と、絶望と、悲しみに満ちた、哀れな純白のドラゴンの姿を、私は目の当たりにして、見るに耐えられず目を閉じて、長い首を、背を反らし、悲しみを堪えることなく、外へと溢れさせた。

「ォォォォォォォ……!」

 びりびりと、居住区の外壁が震える。私の、白いドラゴンの悲しい咆哮に共鳴して、私の悲しみを、不安をまるで、煽るように。

『新しいドラゴン……新手か……!?』

 不利な戦いに集中していて、恐らく私の身に起きたことに気付いていなかったのだろう。ゾラは突然現れた新たなドラゴンに、驚きの声を上げていた。

 ゾラ・ドラゴンは黒ドラゴンに蹴りを入れ体勢を崩させ隙を作ると、新たに現れたドラゴンに……私に向かって飛びかかってきた。私は、静かにその首をひねり、ゾラ・ドラゴンの方を向く。ゾラ・ドラゴンは飛びかかろうとした相手の、つまり私の、きっと悲しげな表情に、戸惑ったのだと思う。私はとっさに、心の中で強く、強く、今言える精一杯の想いを言葉にして念じた。

『助けて……ゾラ……!』

『ッ! その声……ノゾミ、なの……!?』

 ゾラ・ドラゴンは私に飛びかかるのをやめて、翼を震わせて私の目の前に四本足で着地した。そして、彼もまた戸惑いの表情を浮かべながら、私のことを見つめていた。私は、ゾラに気付いてもらったというその事実だけで、彼に言葉が通じたという事実だけで、胸が締めつけられるほどうれしくて、哀しくて、苦しかった。

『……助けてゾラ……私、私……!』

『ノゾミ、本当に……本当に、君なの……!?』

 私は長い首を静かに縦に振った。ゾラはそっと近づき、その鋭い爪を持つ指先で、私の頬の濡れた毛に触れた。私の目から溢れるものが、それでも、どうしても、とまらない。どうしていいか、わからないのだ。ゾラは私の首筋に優しくそっと手を添えた。

『どうしよう……どうして……ねぇ、どうして私、こんな姿になってるの……!? どうして、どうして……どうすれば……』

『ノゾミ、落ち着いて、君が今、怯えているのは分かる。でも、落ち着いて、落ち着くんだ。一緒に、一緒に考えよう』

『……信じたくない……貴方を、ドラゴンを、否定したいわけじゃあないの……でも、やっぱり……私、自分が人間だって、信じて、今もそう思いたいのに、でも、私こんな姿で……!』

『落ち着いて、ノゾミ……大丈夫。大丈夫。君は君だ。……そうか、だから、君の父さんは、あの時君の言葉を遮って……』

『やめて、違う! 私はドラゴンじゃない! 私は、私は人間なの! ……人間に紛れ込んでいる、ドラゴンなんかじゃ……ない……そんなはずないの……』

『ノゾミ……ごめん、僕が、無神経だった……』

『……ごめんなさい、でも、でも……私は、私は……!』

『大丈夫、大丈夫だよ、ノゾミ。君は、どんな姿でも君だ。僕がどんな姿でも、僕であるように。だから……』

 ゾラ・ドラゴンが何かを私に伝えようとした瞬間、鈍い音と共に私の目の前でゾラ・ドラゴンが倒れ込んだ。

「グウォウゥッ!?」

『ゾラッ!』

『やれやれ、子供っていうのは甘っちょろいぜ。戦いの最中に、背を向けたり、泣きじゃくったりするなんてなぁ?』

 倒れ込んだゾラの背後には、あの黒ドラゴンが立っていた。私はとっさの怒りで、それまでの悲しみも忘れて飛びかかろうとしたが、その前に私自身も何か強い衝撃に襲われ、その場に倒れ込んでしまう。

「ギャゥッ!?」

『ふふ、ふふふ。おしゃべりはそこまでよぉ、子猫ちゃん……いいえ、仔ドラゴンちゃぁぁぁん……!』

 倒れ込んだ私が聴いたのは、あの女ドラゴンスレイヤーの声だった。しかし、それはヒトの声として聞こえたのではなかった。そうこれは……多分……と考えようとするが、頭がぼうっとしてくる。

『ゾラ……逃げて……』

 力を振り絞り、私は隣で倒れる黄色いドラゴンに手を伸ばすが、私の手が黄色いドラゴンに届く事は無かった。

 私の意識が遠ざかっていく。私はどうなってしまうのだろう。誰にも私だと、ノゾミだと分かってもらえないまま、このままドラゴンとして、居住区を襲ったモンスターとして、死んでしまうのだろうか。

 辺りを静寂が包みこむ。倒れ込む白と黄色のドラゴンに、赤い雪がただただ降り続いた。


 いつからだろう。パパと気持ちがすれ違うようになってしまったのは。男で一つで育ててくれたあの人を、疎ましいと思うようになってしまったのは。

 私が物心ついた頃には、既にママはいなかった。その理由を、パパは頑なに語ることを拒んでいた。そのことに微かな不信感を覚えたのは歳が二桁になるかならないかの頃だっただろうか。さりげなく聞けばはぐらかされ、ストレートに聞けば曖昧な理由で怒られた。多分そこから、私たちは少しずつ、少しずつ距離が離れていってしまったのだろう。

 パパへの反抗心だけが理由ではなかったが、怖いもの見たさでパパから禁じられていた外の世界に一人で繰り出したのが、13歳の時だったと思う。いざ外に出てみれば、不思議と外の世界への恐怖心は無かった。むしろそんな自分がどこか異質なのではないかという怖さの方が強かった。

「その不安が、ただの杞憂ではなかった今の感想はどうかしら?」

 不意に後ろから誰かに声をかけられる。その声を聞いて私は慌てて後ろを振り向いた。聞きなれた声。見なれた顔。……いや、聞きなれた見なれたなんてレベルじゃあない。それは紛れもなく私だったのだから。

「そう、私は貴女。でも、別にドッペルゲンガーじゃあないから安心して」

「……自分に会うなんて、それじゃあここは、夢の中ってことかしら?」

「そうね、ほぼ正解だわ。でも完璧な正解じゃあない」

 もう一人の私は気味の悪い笑みを浮かべて私の周りをゆっくりと歩きまわり始めた。

「覚えていないかしら? さっき私の身に何が起きたのか」

「何が……?」

 そうだ、確か何か自分の身に重大な出来事が起きたはず。なのに、なぜか頭に靄がかかったようで、すぐに記憶をたどることが出来ない。その時急に私は何か妙な不安感に襲われ、にわかに自分の身体を見回した。柔らかな肌。長い指。頭に手を伸ばせば、触れるのはベリーショートの髪。紛れもなく、いつも通りの私。目の前にいる私と、同じ私。

「そう、私は今とっさに自分を確認した。……自分の身に、大変なことが起きたことを、何となく覚えていたからよね」

「……貴女は一体誰なの?」

「言ったでしょう? 私は私。つまり、貴女。……別に、貴女の中に眠るもう一つの人格でも、貴女の中に眠る、忌わしいモンスターでもないわ」

「私の中の……モンスター……?」

 何かを思い出しかける。何だろう、この胸が張り裂けそうな、息苦しい感じは。自分が、自分で無くなってしまう不安感は。

「私の存在は、あえて言えば……そう、ブレーキかしら」

「ブレーキ……?」

「私は……つまり貴女は、精神的にも肉体的にも非常に大きなダメージを負った直後。この夢は、そしてもう一人の貴女としてのこの私は、そのダメージを受けてとっさに生まれた存在。貴女のダメージを、少しでも和らげるためにね」

「私の、ダメージ……」

 私は頭を抱える。思い出さなきゃいけないことがある気がするけど、それを思い出してはいけない気もする。何だろう、この不安定な焦燥と危機感は。

「私はそれを思い出さなきゃ。現実には戻れない。でも、それを思い出せばもう私は以前の私には戻れない。……言っている意味、分かるかしら?」

 もう一人の私が、哀しげな目をしながら、口元が笑っている。何だこの私は、私の、何を笑っているんだ?

「……意味を理解してはいないけれども、意図は概ね理解出来たと思うわ……もう一人の私」

「それならいいけども、事の重大さがまだピンと来ていないんじゃあないかしら?」

「だって、記憶が……」

「じゃあ、少しだけ思い出させてあげようかしら?」

 そう言ってもう一人の私は自分の左手で、私の右手と握りしめた。その瞬間、右手全体に痛みに似た、しかしそれとは異質の形容しがたい刺激が襲ってきた。私は慌ててもう一人の私の手を振りほどいた。

 しかし、既に遅かった。私が恐る恐る右手を見ると、私の手は異形のモノへと変化していた。白く柔らかな獣の毛が、私の手を覆う。指は短く変化し、指先からは黒い爪が生えていた。恐る恐る、右手の指を曲げようとすると、間違いなくその異形の手の指が曲がる。

 これは、私の手だ。

「どう、少し思い出したかしら?」

 私は睨みつけるようにもう一人の私を見た。すると、彼女の左手もまた、私と同じように異形のモノへと変化していた。

「……私が、つまり貴女がこの姿を自分できちんと確認したのは、あの女の作った氷の鏡に映った姿だったせいかしらね、私は、鏡に映った貴女ってことになるみたいね」

 もう一人の私は冷静に、冷めた様子でそう語った。

 そのわずかな時間で私は、大分靄につつまれていた記憶を思い出していた。そして、思い出せば思い出すほど、あまりのショックと、驚きと、恐怖で、私の身体が震え始めた。そうだ、私は。

「私は……私は、本当に……ドラゴン、なの……?」

「……私は貴女。貴女が知る以上のことを、当然私は知らないわ。私が、貴女が、ドラゴンであるという現実を受け入れるなら、私は、貴女は、ドラゴンなのよ」

 もう一人の私は子供に言い聞かせるように、しかしどこか冷たい口調でそう言い放った。私はもう一度右手を見る。ヒトとしての手とは、似ても似つかない、モンスターの前足。これが自分だと認めなければいけないのか。この受け入れ難い事実を。

「受け入れたくないのなら、受け入れなければいいのよ」

 もう一人の私の声が、私の耳をくすぐった。その言葉の気味の悪い心地の良さに、全身鳥肌が立った。

「私に、現実を捨てろと?」

 また、もう一人の私が笑った。悲しげな眼をしたまま、口元は嬉しそうに緩む。

「ドラゴンになりたくないのでしょう? 私は人間なんでしょう? だったら、目を覚ます必要なんかないわ。このまま、ここにいましょう? 目覚めれば私は、貴女は、現実の残酷さに耐えられないかもしれないわ」

「……違う」

「違う?」

「……受け入れ難い現実を受け入れないことが……現実と向き合わず殻に閉じこもることが、解決法だとは思わない!」

 私がそう叫んだ瞬間、私の左手に先ほどと同じ刺激が走った。私は身をよじらせながら、異形と化した右手でその左手を押さえる。左手もまた、瞬く間に白い毛で覆われた異形のものへと変化した。

「受け入れ難い現実を受け入れても、それは何も解決してくれないわ」

「受け入れる事は解決法じゃあない……受け入れる事は、前を向く事だわ。解決法を探すために!」

 背筋に刺激が走る。私の顔は苦痛で歪み、立っていられずに異形と化した手を地面に付き、伏した。見えないが、背中もきっと白い毛で覆われてしまっているだろう。体躯も、作り変わっていってしまう。顔が、首が、見えない力で引き延ばされていく。肩甲骨の辺りから、尾てい骨のあたりから、何かが生えてくる。

 もう一人の私の問いに答えるたびに、というよりは、答えている間に、私の身体を変化が襲っていく。私が、私でなくなっていく。人間で、いられなくなっていく。

「そうは口で言っても、私は、貴女はいつも現実と向き合ってこなかったじゃない」

「……そうね、私は……パパとのすれ違いを、パパのせいにしているのかもしれない……それが現実を向き合っていないことになるのかもしれない……でも!」

「でも?」

 反論しようと見上げた先に見えたのは、私の知る私の姿じゃあなかった。私は目を見開いて、絶句した。

 目の前にいたのは、白い毛で覆われた獰猛そうな獣。見なれぬ、幻想的な獣。前に突き出した鼻先。青い瞳が、悲しげに輝く。微かに開いた口の中には、鋭い牙が微かに見えた。

 一度、あの女ドラゴンスレイヤーが創り出した氷の鏡で見てはいる。見てしまってはいる。しかし、とっさにそれが私の姿だと、ドラゴンになってしまった自分だと、理解はまだ出来なかった。

「おぞましい姿でしょう? これが私の、貴女の本当の姿。私は、貴女は、人間なんかじゃあない。この、純白のドラゴンこそが、私」

「っ……!」

 違う!

 そう言いかけて私は、言葉を呑んだ。

 私は恐る恐る首をひねる。すると容易に自分の全身を高い位置から見下ろすことが出来た。白い毛で覆われたその怪物の身体を、自分だと認める事の方が、よほど難しいぐらいに。

 しかし、そう。違わない。私がいるべき場所に、私はいない。

 鋭い爪を持つ四つの足。長く伸びた尻尾。ここにいるのは私の心を持った、異形の怪物。

 ただ一匹の、純白のドラゴンがいるだけだ。

「貴女は、私に、自分に、向き合えるの? 人ならざる者に身をやつした自分に、向き合えるの?」

 その問いに、私は何も答えられなかった。向き合えると、胸を張って答えるだけの自信が無かった。喉で何かがつっかえているかのような、言いようのない心地の悪さばかりが残っている。

 それでも、私はゆっくりと首を上げる。言わなきゃいけない。見なきゃいけない。私は、私と向き合わなきゃいけない。私は。

「私は」

「何も言わなくてもいいわ」

 大きく、太く、短く変化してしまった、人間で言う人差し指を私の唇にそっと当て、もう一人の私は、私の言葉を制止した。

「私は貴女。何を言うのか、私には分かるもの」

「……貴女は私なのに、貴女が私の何なのか、分からないわ……」

「言ったでしょう? 私は貴女にとっての、ブレーキの様なもの。貴女が貴女であるために、どんな姿になってしまったとしても、ノゾミ・ルーニーとして生きるために、私は今この時だけ、貴女のために、私のために生まれたの」

 もう一人の私は指を私の口元からそっと離しながら、一歩、二歩、後ろに下がり、そして首を少し傾けながら、ほほ笑んだ。獰猛な獣とは思えない、穏やかで、優しい笑顔。

 私は後悔していた。じっと目の前のもう一人の私を見つめながら、後悔していた。

 何が異形だ。何がおぞましい姿だ。今目の前にいるもう一人の私は、自分で口にするのも恥ずかしいぐらいに、美しく、気高い獣ではないか。

「……私、自分がこんな風に、自分に見惚れるようなナルシストだと思わなかった」

「そういう自分からも、逃げていたのよ。私は。ずっと、ずっと」

「そう、かもしれない……私は、自分の弱い部分を、周りのせいにして。何かのせいにして。ずっと、逃げてきたのかもしれない……、うん、私が逃げていたのは、現実なんかじゃあなくて、自分だったんだ……自分の弱い部分とか、自分の内側とか。気づくのが、怖かったんだ……」

「そう、私はもっと、私を好きになっていいんだ」

 目の前の純白のドラゴンは、優しく微笑んだ。そして再び、私に近寄って私の前足をスッと取り、指を絡める。もう一人の私の、青い美しい瞳に、微かに白いドラゴンが映り込む。

「どんな姿でも、どんなことを考えて、どんな風に生きても、私は私。それでいいの」

「……自分に言うのって変だけど」

 私は、一つ息を小さく吸い、目の前のドラゴンを真っ直ぐ見つめて、短く告げた。

「ありがとう」

 目の前の白いドラゴンは、穏やかな笑顔で返すと、重ね合わせていた前足を、ゆっくりと離した。そしてその大きな翼をはためかせ、私の目の前から飛び立った。

「私は、貴女は、大丈夫。向き合う私がいなくても、貴女は自分に向き合える」

 もう一人の私の声が聞こえる。私はその声に抱かれながらゆっくりと目を閉じる。まるで眠りに落ちるように、眠りから覚めていく。静かにまぶたを開ける。まだ霞む視界には、白いドラゴンはもういない。代わりに見えたのは、黄色いドラゴンだった。私はそのドラゴンを知っている。彼の名を呼ぼうと、私は声を出す。

「キュウゥ?」

 普通に喉から、いつもするように声を出そうとしたが、出てきたのは甲高い鳴き声だった。その事で、ふと私は改めて気づく。さっきまでドラゴンの姿で普通に喋ることが出来たあの夢は、やはり夢だったのだと。そして夢から覚めても私は、ドラゴンの姿のままであることを。

『よかった、ノゾミ……目が覚めたんだね』

 目の前の黄色いドラゴンが優しく穏やかに鳴き声を上げると、それと同時に私の頭に少年の声が響いた。間違いない。やはりこの黄色いドラゴンは、ゾラだ。

『ゾラ! 無事だったのね』

 私は手、とは呼べなくなった前足をしっかりと地面につけ、後足に力を込めて四本の足でその場に立つ。慣れないけれど不自然な感じは無かった。そのことへの違和感ではなく、自然に四足で立つことが出来ている自分への違和感の方が強いぐらいで。

『大丈夫?』

『ええ、攻撃されたところが少し痛むけれど、大したことじゃあないわ』

『あ、そうじゃなくて、その……』

 ゾラの少し戸惑ったような表情を見て、私は察した。そうだ、気絶する前、私はドラゴンになってしまった事実に困惑し、取り乱してしまった。そのことを、ゾラは心配してくれたようだった。

『そう、ね。大丈夫よ……私は大丈夫。ちゃんと、自分と向き合ったから』

『自分と?』

『ええ。そうね、少しだけ……少しだけ、ビリー・ミリガンの気持ちが分かったわ』

『ビリー……誰だいそれ?』

『何でも無いわ。古い昔話よ』

 ゾラ・ドラゴンはその目をきょとんとさせて長い首をひねった。私はその様子に微かに笑みを浮かべたが、私はすぐにまじめな表情を浮かべてゾラに問いかけた。

『そういうゾラは、大丈夫だったの?』

『うん。こう見えて結構丈夫だから』

 ゾラはそう言うが、身体には生々しい傷跡があるのがはっきりと分かる。確かに致命傷はなさそうだし、あれだけ攻撃を受けていながら元気そうにしているのだから、丈夫だというのは事実だろうけど、見ていて痛々しさを感じた。

 私はそんなゾラの事を心配げに、ついまじまじと見てしまっていたが、ふと気付くとゾラもまた、私のことをじっと見ていた事に気づく。そしてにわかに、自分の顔が熱くなっていくのを感じた。だって考えて見れば、そうだ。私も、ゾラも、今、ドラゴンの姿。つまり、それは、どういうことかというと、何も身につけていないということになるわけで。

『ノゾミ、さっきは、その……気付かないとはいえ、攻撃しようとしてごめん』

『えっ……ああ、大丈夫よ、直前でゾラ、ちゃんと気づいてくれたし』

『……正直、押されている戦いの中で、君の姿をきちんと確認できていなかった。……冷静になっていれば、すぐに気づけたはずなんだ。君のその、ドラゴンの姿を見たときにね』

『えっと……何の話?』

『……ノゾミ、君に言わなきゃいけないことが……一つあるんだ』

『言わなきゃいけない……こと? 私に?』

 私は一つつばをごくりと飲み込んだ。妙な緊張感で、手に汗をかきそうだったが、今は前足となっているし、汗もかくはずはないのだけれども。

『僕の探していたドラゴンは、ノゾミ、おそらく君だ』

『……えっ』

『純白の毛を持つ、美しいドラゴン。僕が聞いていた、ドラゴンのイメージそのものなんだ。今の君の姿は』

『ま、待って! 私、今初めてドラゴンになったのよ!? それなのに……』

『分かっている、正しく言えばきっと、君の祖先に当たるドラゴンの話を、僕が聞いたんだ。……僕には、君の力が必要なんだ』

『それって、どういう……?』

 ゾラの言葉の真意を確かめようとした時、不意に居住区のシャッターが開く音が聞こえ、私たちはとっさに音のする方を見た。

「あらあらぁ? もう回復しちゃったのぉ? 本当にタフネスなのねぇぇぇ?」

 甲高くて、ざらつくような、耳障りな女の声。全身の毛がざわつくのを感じる。間違いない。あの女ドラゴンスレイヤーだ。

「ふふ、ふふふ。そんなに睨まないでよぉ、仔ドラゴンちゃぁぁぁん?」

 マスクを付けていても、目元口元がにやけているのが分かるぐらい、女ドラゴンスレイヤーは満面の笑みだった。そして彼女の後ろからは二人の男性が一緒に居住区から出てきた。一人は見たことのない、屈強な男。そしてもう一人は。

『パパ!』

 私はとっさにそう叫んだ。しかし勿論、私の声は人間にはただの鳴き声にしか聞こえない。パパに、私の声は、言葉は、届かない。

「これが、言っていた"居住区を襲おうとしたドラゴン"かね?」

「えぇ、その通りでございます!」

「そうは、見えないのだがね?」

「まだ子供のドラゴンですからぁ、居住区に敵意は無いでしょうしぃ、気が立って無ければ大人しいものなのですけれどねぇ? 取り逃がしてしまったあの黒いドラゴンが現れたことで、驚いてしまったのでしょうねぇ。ふふ、ふふふ。とはいえ、とはいえぇぇ、放置しておけば、厄介なドラゴン……ここで始末してご覧にいれましょうかねぇぇぇ?」

 狂気の混じった、女ドラゴンスレイヤーの言葉が、私の心に突き刺さる。始末……それって、何をする気なのか。

『落ち着いてノゾミ、落ち着いて』

『……ゾラ』

 怯える私に、ゾラは小さな何声をかけてくれた。危うくまた、恐怖に飲み込まれて取り乱すところだった。自分と向き合うことは出来るようになっても、短い間に続けてショックを受けた私の心はまだ、癒えてはいない。

『ごめん。ありがとう、大丈夫』

 私は短くそう答えた。ゾラ・ドラゴンは小さく頷いて見せた。

「実は、さっきから娘の姿が見当たらないのだが」

「あら! あらあらそれは大変! 探させていただきましょう!」

「……昔話になるのだがね」

「はいぃ?」

 不意に切り出したパパの話に、女ドラゴンスレイヤーの声が裏返った。

「昔のこの居住区に美しい女性が住んでいてね、同じくこの居住区に住んでいた、若い政治家と恋に落ちたのだけれども」

「あのぉ、ひょっとしてご自分の馴れ初めお話しされようとなさってますぅ? 今全然関係ないと思うんですけどぉ?」

「……長い話を嫌うのであれば、簡潔に話させてもらうが。その美しい女性というのが……人間ではなくてね、ドラゴンだったのだよ。……純白のね」

『っ!!』

 パパのその言葉に、周囲は息を呑んだ。私はすぐにその言葉が頭に入ってこなかったが、ゆっくり、ゆっくりその言葉を読み解く。若い政治家が、パパのことだとすれば、その美しい女性は、純白のドラゴンは。

 パパはゆっくりと私を見上げると、私の姿をまじまじと見ながら、小さく呟いた。

「彼女は、かつてこの街を襲おうとした悪いドラゴンと戦うために正体を明かして……私の元を去っていってしまった。……美しくて、優しくて、困っている人間がいたら、放っておけない人……いや、ドラゴンだったよ。おまえは、性格も……姿も、ママに似たんだな……ノゾミ」

『パパ……!』

 パパは切なそうにほほ笑んだ。胸が詰まりそうだった。この姿になっても、パパは私だと気づいてくれた。

 私はようやく理解した。パパは、ママが自分から去っていってしまったことが、きっとトラウマになっていたのだろう。だから、パパに反抗して自分から離れようとする私のことが、ママに重なり合ってしまったのだろう。

「ぁぁぁぁぁあああああ!! もうっ! 台無し! 最悪!」

 急に周囲に甲高い声が響き渡る。見れば、女ドラゴンスレイヤーが頭をかきむしりながらわめき散らしていた。

「エーナ、落ち着け」

「落ちつけだと!? ローナ、よくそんな事が言えるなぁ!? 折角、対ドラゴンの用心棒として契約料ふんだくろうと思ったのに、台無しじゃあねぇか!」

 エーナと呼ばれた女ドラゴンスレイヤーは、自らの魂胆を明かすとともに、私を睨みつけた。

「ちっ……利用価値があると思ってドラゴンに目覚めさせたのが失敗だった……まさか娘だったとはねぇ……だが!」

 そう言って女ドラゴンスレイヤー、エーナは持っていた短剣を振り上げ、目にもとまらぬ速さでパパに向かって振り下ろした。

『パパッ!』

「父親は、普通の人間ってことは……ふふ、ふふふ。どうなるか、想像は容易よねぇぇぇぇ!?」

「エーナ、やり過ぎだ! 命を奪うやり方は筋が違う!」

「この状況で、そんなことよく言えるな、ローナぁ!」

 彼女たちの内輪もめさえ、聞こえなかった。頭が真っ白になりそうだった。パパのマスクとゴーグルが、パパの足元に落ちる。パパの口元から、赤い液体がこぼれ出す。何だろうあれは。何が、起こったんだろう。パパが、毒に犯された? パパは、普通の人間だ。赤い雪に触れれば、吸い込めば、ものの数秒で。

『いっ……嫌……! 嫌ぁぁぁっ!』

 私は、無我夢中でその場で叫んだ。それはドラゴンの咆哮となり、ビリビリと空気を震わせた。こんなこと、信じたくない。折角、パパの想いが少しわかって、パパと向き合って話が出来ると思ったのに。

(……大丈夫……)

 失意の私に、不意に声が聞こえてきた。……聞こえてきたというと、少し違う気がする。その声は、私の声そのものだったのだ。その声の主が誰なのか、私はすぐに気が付いた。夢に出てきた、もう一人の私だ。

(大丈夫……私には、貴女には、パパを救う力がある……)

(パパを……救う力……?)

(それは、ゾラを助ける力。それはこの星を救う力。世界を、変える力)

 もう一人の私の声とともに、私はゆっくりと目を開く。ふと、自分の身体が輝いていることに気が付いた。

「何……何なのよぉぉぉ……何なんだよぉぉぉこれはぁ!」

『ノゾミ! 君の力で……君のお父さんの、毒を……赤い雪を浄化するんだ!』

 ゾラがそう私に叫んだ瞬間、私はもう一人の私の言葉を理解した。そして一つ小さく息を吸い込み、全身に力を込めて、もう一度高々と咆哮を上げた。私の身体にまとわりついていた光が周囲に霧散し、積っていた赤い雪を一瞬にして消していく。溶かすのではない、文字通り、赤い雪が消えていく。

『話の通りだ……世界を滅ぼした赤い雪……その雪を浄化できるドラゴン……ノゾミ、やっぱり君が、そうだった……!』

「赤い雪を浄化出来るドラゴン……!? そんな、そんなものが……!?」

 エーナはうろたえた様子だったが、程なく呼吸を取り戻したパパを見て、その表情は焦燥のものへと変わっていった。

『パパ……よかった……!』

「なんで……なんでなんでなんで!? 今回に限ってこんなにうまくいかないのよぉぉ……上手くいかないんだよぉぉぉぉぉぉ!?!?」

 エーナはそう叫ぶと同時に、彼女の周りに冷たい風が吹き荒れた。すると彼女の身体がみるみる肥大し始め、彼女の姿は異形のものへと変わっていった。青い鱗が全身を覆い、手足は鋭い爪が生え、長い尻尾が姿を現す。鼻は前に突き出し、鋭い牙が並ぶ。

『やっぱり、貴女もドラゴン……!』

『そう……私は氷竜のエーナ!』

 青いドラゴンへと変貌を遂げたエーナがその前足を振るうと、氷の礫が私とゾラを襲った。

『散々邪魔してくれて……氷漬けにしてやる!』

『くっ……! ノゾミ、君の力を僕に貸してくれ!』

『この力を……どうやって……!?』

『空に覆う雲を……赤い雪の元凶を、取り払うんだ!』

『雲を……!?』

 エーナ・ドラゴンの猛攻の中、私は天を仰いだ。空を覆う重苦しい赤い雲。私はまた一つ息を吸い込んで、そして大きく咆哮を上げた。再び私の身体の周りに光が現れ、空気が震え、エーナ・ドラゴンの放つ氷をはねのけ、そして霧散した光が空の雲へと伝わった。瞬間、長くこの地を覆っていた雲がはじけ飛ぶように消えてなくなり、地上に幾百年ぶりかの陽の光が降り注いだ。青い空が、広がっていく。

『これが……空……本当の、空……』

『眩しいぃ……! だが、だから何だって言うのぉ!』

 エーナ・ドラゴンは甲高い声を上げて、前足を大きく振り上げた。すると今度はその前足に氷がまとわりつき、瞬く間に氷の爪を形作った。エーナ・ドラゴンはその爪を私に向かって思い切り振りおろした。

『っ!』

 私はとっさのことに身動きとれずその場で目を瞑るしか出来なかった。しかし、彼女の氷の爪が私を捉える事は無かった。私が目を開くと、そこには黄金色に輝く一匹の竜の姿があった。

『……ゾラ……ゾラなの?』

『ありがとう、ノゾミ。これで僕は……本当の力で戦える!』

 そう言ってゾラ・ドラゴンは、受け止めていたエーナ・ドラゴンの氷の爪を、軽々と砕いて見せた。

『な……何なの……何なんだよぉぉぉ貴様ぁぁぁ!?!?』

『僕はゾラ。……太陽竜のゾラ』

『太陽……!?』

『僕は、太陽の光を得る事で、ドラゴンとしての力を引き出すことが出来るんだ。だけど、この世界……雲で覆われたこの世界じゃ、太陽の力を使うことが出来ない。……雲の上まで敵をおびき出すことも出来ないしね……でも、今の僕なら!』

「いかんエーナ、よけろ!」

 エーナが連れていた屈強な男、ローナがそう叫び終わるかどうかだった。ゾラはすぅっと息を一つ吸い込むと、ゾラの口から一筋の光が、目の前のエーナ目掛けて放たれた。そしてすぐに辺りがまばゆい光で包まれて、視界を奪われた。

 次に私が目を開いた瞬間、黄金のドラゴンの前に、あの青いエーナ・ドラゴンはいなくなっていた。私が思わず周囲を見渡すと、少しだけ離れた場所に一人の女性が倒れているのを見つけた。間違いない。人間の姿のエーナだった。

『これが……太陽竜の力……!』

『違うよ、ノゾミ』

『えっ?』

『僕だけじゃない……君の力があって……浄化の力があって、僕は初めてこの力を出せたんだ。これは、僕と君の、二人の力だよ』

 そう言ってほほ笑む黄金のドラゴンに、私は顔が熱くなるのを感じた。……今初めて、顔が毛で覆われていてよかったと感じていた。この顔なら、顔色が悟られることがないのだから。

「まさか、こんな子供のドラゴンにエーナがやられるとはな」

 微笑んでいた私たちは、すぐに顔を引き締めた。そう、エーナと共にいた屈強な男、ローナ。この男がまだ残っていたということに気付いたのだ。

『……お前も、ドラゴンなのか?』

「さっき、貴様と戦っただろう?」

『……あの黒いドラゴンが、お前なのか』

「ああ、そうだ。俺がこの居住区を襲い、エーナがドラゴンスレイヤーになり済まして契約金をふんだくるつもりだったが……まぁいい」

 ローナはそう言うと、身構える私たちをしり目に、倒れているエーナに近づき、彼女を抱きあげるとそのまま背負い、私たちに背を向けてその場を離れようとした。

『逃げるつもりか!? 人の命を、奪いかけておいて!』

「……勝てるつもりでいるのか? 太陽の力が無ければ戦えない貴様に、ドラゴン本来の戦い方さえ出来ていない貴様に、この俺が」

 振り返ってゾラに見せたその睨みに、私とゾラは一瞬身震いした。……確かに、さっき戦った時、この黒いドラゴンは、本当の力を出せてはいないとはいえ、ゾラを圧倒していた。この男の言葉、強がりじゃあないだろう。

「……貴様が旅を続けるなら、いつかどこかで、会うだろうな」

 そう言って、エーナを背負ったままローナは、ゆっくりと私たちから離れていった。

 私は、ようやく緊張から解き放たれたことを感じると、前足後足の膝を折り曲げて、その場に伏せた。

『ノゾミ、大丈夫!?』

『大丈夫よ、大したことじゃあないわ……すこし、気が抜けただけ』

 私は首を上げて空を見上げた。初めて見る、青空。眩しい太陽。赤い雪のない大地。この光景を、私が創り出したんだ。そして私はパパの方を振り返った。

『目覚めたら、ちゃんと話さなきゃ……パパと、きちんと向き合って』

『出来るよ、ノゾミなら。今のノゾミなら』

『……うん』

 ゾラの言葉に、私は小さくうなずいた。赤い雪の降らない世界の空気は、信じられないほど住んでいて、呼吸する度心地がよかった。少しだけ、憧れていた昔のこの世界に近づけたような気がした。

 それからしばらく私は、パパの看病を続けた。私が毒を浄化しても、しばらくの間は後遺症が残ってしまっていたが、すぐに回復して、仕事に戻るようになった。その間、私とパパは色々な話をした。今までの溝が嘘のように、私たちはお互いの気持ちをはっきりと伝えあうことが出来た。

 そして。

「……行くんだな」

「うん」

 あれから一カ月。私は居住区を出る事を決めた。パパが全快したのを契機に、そのことをパパに打ち明けると、少し寂しそうな顔をしたが、止めることなく静かに「そうか」と言ってくれた。

「あのね、パパ」

「何だ?」

「……ありがとう」

 私はさよならも、いってきますも、言うのをためらった。でも何か言わなきゃと思って出てきた言葉は、今までの気持ちをそのまますぎるほどに現したその言葉だった。

「無事を、祈ってるぞ」

 パパもまた、いってきますを言うことは無かった。それは寂しいこととも感じたけども、溝が埋まってもこういう時に素直になれないのは、お互いさまで、それが私たちがしっかり親子何だっていうことを感じさせてくれて、何だかむず痒かった。

「ゾラくん、娘を頼むよ」

「はい」

 そう、旅は私一人じゃあなかった。ゾラは一カ月、この居住区にとどまり、私と共にパパの看病や壊れた居住区の修復を手伝ってくれていたのだ。そして、私が旅立つのを決めた時、彼もまた共に旅に出る事を決めたのだ。

 私たちは居住区を出ると、眩しい陽の光が私の目に飛び込んできた。ドラゴンである私やゾラでなくても、今では普通の人間でもマスクもゴーグルも無しに外を出歩く事が出来るようになった。

 赤い雲が風に乗って流れてくることもない理由をゾラに聞くと、ゾラも詳しくは分からないらしかったが、私の放った毒を浄化する光がきっと、この地を守り続けているんだろうと答えてくれた。

 また、同じ力を持っていたはずのママがこの地の毒を浄化しなかった理由について、きっと持っている力に気づいていなかったのだろうと教えてくれた。浄化竜の祖先は遥か昔、この地に逃れてきたと言われ、そのまま静かに暮らすために能力を秘めるようになり、子孫には伝えられてこなかったのだろうと。

 もしママが自分の力を知っていたら、きっとこの地を救っていたはずだ。

 私は居住区を振り返る。長く過ごした、私の故郷。

「寂しい?」

「そりゃあ、そうね」

「でも、一緒に来てくれるんだね」

「……ゾラがいてくれれば、世界はきっと変えられる。私たち二人の力で」

「そう、だね。そうなるように頑張ろう」

「それにね」

「それに?」

 私の言葉に、ゾラは私の方を見ながら首をかしげた。私は笑顔を浮かべながら、言葉をつづけた。

「私、ママを探してみようと思うの。パパにはそれが旅の目的だって、黙っていたけど。パパがね、ママのことを今でも思っているよって。そして、私のドラゴン姿をママに見て貰いたいの」

「いいと思う。僕も、ノゾミのお母さん探すのに協力するよ」

「ありがとう、ゾラ」

 そう言って私たちはお互い笑った。赤い雪に、悪いドラゴンに、苦しめられているこの世界を、私たちの手で変えていく。それは途方もなく、難しい道のりだと、口にはしないけどお互い気づいている。それでも私たちは、やっと自分の望んだ世界への道が拓けたこの喜びに、今は胸が高鳴っていた。

「いこう、ノゾミ」

「うん!」

 そして私たちは、雪のない大地を駆けだした。すぐに私たち二人の身体が大きくなっていく。二本足で蹴っていた大地を、すぐに四本の足で駆けだす。ゾラの身体には太陽で輝く黄金の鱗が、私の身体には太陽で輝く、銀色の毛皮が、覆っていく。二人の背中から大きな翼が生える。そして二人は二匹になって、その翼をはためかせた。

 透き通る、美しい空。澄んだ空気。この世界を、私たちの手で広げていこう。私は長い首で空から大地を、そしてさらに上空を見渡しながら強く心にそう誓った。

『ゾラ』

『どうしたの、ノゾミ?』

『……ううん、何でもないよ。ちょっと名前を、呼んでみただけ』

『……変なノゾミ』

 もう一つ、ゾラと一緒に旅をする理由があるにはあるのだけれども、そのことをゾラに言うのは多分、まだきっと、ずっと先かもしれない。こうしてそばで身体を寄せながら空を飛んでいるだけで、私がどれだけ心強くて、安心しているか、ゾラをどんな風に思っているのか、ゾラはまだ知らない。

『大丈夫』

 そう、もう一人の私が夢の中で言ってくれた言葉。

 大丈夫、いつか言える日が来る。

 大丈夫、いつかこの世界を本当に救える日が来る。

 二匹のドラゴンは強い思いを秘めながら、青い空を寄り添いながら飛んでいく。ほんの少しづつ変わり始めた、この世界の空を。

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この小説を書いた人

宮尾武利

ATRIダイレクター。獣化作家。

「獣化がまだ好きではない人に獣化を好きになってもらうため、獣化を好きな人にもっと獣化を好きになってもらうため」をモットーに、獣化について様々なアプローチを試みている。

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