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見出し画像 小説
猫の国の双子姫

2023/06/03


人と獣人が共存する架空の戦国時代。

草人(人間)が住む磐奥国領主の娘、明華は猫人の住む宇前国領主の元へ預けられることとなり、そこで宇前国領主の娘、薫千代と出会う。猫人の秘薬によって猫人の姿となった明華だったが、その姿は薫千代と瓜二つであった。

 願いとはある種の呪いであると言うことを、奥姫(おうひめ)は理解をしていた。奥姫は帝の都より程遠い、南東の端にある海に面した磐奥国(ばんおうのくに)の領主、内藤路仁(ないとう ろじん)の娘であり、名を明華(みょうか)といった。艶やかな長い黒髪と、きりっとした細い目、この時代において女子ながら男の着る着物を好んで羽織り、文武の才に秀でた彼女のことは、女子らも心を奪われるほどであったという。

 父と母は奥姫に対して甚だしいまでに厳格でありながら、同時に溺愛しており、奥姫はそのことを有難がりつつも、些か困惑していたが、齢も十五となるころには、賢く育った彼女には噂話やこぼれ話が耳に入るようになり、過去の書物も読み、概ねその事情と、両親の抱える秘密を理解していた。

 奥姫は、どうやら内藤家の本当の娘ではなく、赤子の頃に養女として迎え入れられたということだ。戦乱の世、世継ぎに恵まれなかった家が養子を迎えるのは、珍しいことではなかった。ただ、その事実を当人である子に告げず、隠す理由、それは様々な他愛もない噂ばかりが出回り、奥姫自身が納得のいく答えを導きだすことはできなかった。

 何せ十五年も前のことであり、当事者たちが口をつぐんでいる以上、知り得る術は無いのだ。奥姫はつまるところ、その靄のように晴れぬ胸中のまま、自身が事実に向き合ってることを周囲に悟られないように、日々を過ごしていた。

 奥姫の両親が厳格であるのも、溺愛するのも、奥姫への愛情だろう。とはいえ、奥姫自身は境遇を窮屈に感じていた。こう育ってほしい。ああしてほしいこうしてほしい。両親のそんな願いは、奥姫にとっては、すなわち呪いに等しかった。何か物事が大きく変わる出来事が起こりはしまいかと日々想いに耽っていた。

 時は丞応六年。奥姫は不意に生まれ育った盤奥国を離れて、北東にある山中の宇前国(うぜんのくに)の領主、蒔苗慈徳(まかなえ じとく)の元へ預けられることとなった。

「情勢を鑑みれば致し方無し、路仁殿の御判断は、子を想う親であればこそと、同じ子を持つ親として受け入れた次第でございます」

 慈徳によると、蒔苗家は過去に隣国から攻め入られた際に内藤家の助けを受けたことで存続を果たしており、大きな借りがあるのだという。そして内藤家もまた、西の国から圧力を受けており、いつ戦いの火蓋が切って落とされてもおかしくない切迫した状況であった。ゆえに、奥姫を宇前国に預けるという判断自体に、理不尽な点があるわけではなかった。

 しかし、奥姫は気になっていた。それにしたって、気が早いのではないかと。内藤家が実際に戦を始めているわけではないのだ。娘を溺愛するとはいえ、あまりにことを急いている、そう感じていた。

 蒔苗家を信用していないわけではない。が、盤奥国から出たことが無かった奥姫にとって、宇前国の光景はあまりに刺激的であった。町人も、商人も、農民も、武家も、この国に住む者たちはみな、その体を毛で覆われ、尻尾を持つ、二足歩行する猫そのものである猫人(ねこびと)ばかりであったからだ。

「盤奥でも、猫人はおりましょう」

 そう話しかけてきた慈徳もまた、純白の毛で覆われた猫人だ。二足歩行する猫と言っても、背は奥姫より大きい。

「宇前の商人が城下に出入りはしていますし、移り住んでいる町人もいると聞きます。蒔苗家の使いの方がお見えになったこともあります。が、盤奥は草人(くさびと)と岩人(いわびと)の国。城にいて、目にする機会は多くありませんでしたから。これほど多くの猫人を目にするのは初めてです。森人(もりびと)や魚人(さかなびと)であれば、まだ目にもするのですが」

 そう言う奥姫もまた草人である。草人は盤奥は勿論、この列島で最も多い種であり、草原に広く住んでいたことからその名で呼ばれたと言われている。毛は少なく、尻尾もない種であり、草人が人と言えば、それは草人のみを指すことも多かった。

「城内も、家臣もほとんどは猫人でございます。慣れていただくほか御座いませんな」

「ご心配をおかけします」

「馴れぬ土地で暮らすことを慮れば、我々の方こそ努めなければなりません」

 慈徳の言葉に、奥姫は少し安心をした。時勢とは言え、あの両親が、自身を溺愛しているあの両親が、このような決断を下したことに合点がいっていなかったが、少なくても蒔苗家に悪意があるようには感じられなかったし、むしろ敬意をもって接してくれていると感じていた。人質などではないと感じた。

 同日、自らの部屋に通され、ひと段落していたころ、慈徳が再び奥姫の前に現れた。

「齢は奥姫様と同じ十五にございます我が娘、薫千代(かおるちよ)でございます」

 紹介を受けて首を垂れる苗姫(なえひめ)、薫千代もまた、その艶やかな着物に身を包み、父親譲りの純白の毛を銀のように輝かせる愛らしい猫人であった。顔を上げて、奥姫をじっと見つめる翡翠の瞳に、奥姫は、偽りなく心を奪われた。齢同じと言われたが、まだどこか幼さを残すのに凛とした佇まいの苗姫を見て、奥姫はにわかに姿勢を正した。

「薫千代にございます。奥姫様、かような田舎でご不便もございますかと存じますが、不肖薫千代、せめて話し相手になればと申し出た次第でございます」

 そう言って再び首を垂れる苗姫に、奥姫は手を差し伸べる。

「宇前の苗姫様、お顔をお上げください。盤奥もまた漁港で辛うじて成り立つ田舎に違いはありません。ならば、話し相手の恋しさは互いのところ。また、わが父と慈徳殿に各々の立場はありましょうが、しかしながら今こうしてここにいる身。ゆえに己の立場も弁えております。以降私は奥姫でも明華でもありません。単に華とお呼びください」

「恐れながら、では私のことも、薫とお呼びくださいませ」

 苗姫こと薫の言葉を受けて、奥姫こと華も小さくうなずいた。二人が初めて出会った瞬間であった。

 その晩、華が書き物をしていると、袋をくわえた一匹の白猫が窓より舞い込んできた。

「どこぞの迷い猫かと思えば、薫殿か」

 灯の明かりを受けて、きらりと光った翡翠の目に、華は心当たりがあった。数刻ばかり前に、その目に心を奪われたばかりなのだ。見間違うはずはなかった。

 白猫は一つ小さく鳴き声をあげ、体を震わせた。すると、徐々にその体は大きくなっていき、四肢は長く伸び、純白な毛を纏っていても分かる、猫と人の美しさを併せ持った、その柔らかな体つきを華の前に晒した。その姿は紛れもなく、薫であった。その様子を、華が疑問に思うことは無かった。猫人が猫そのものの姿になれることも知ってはいたので、驚きはなかった。

「お父上がご覧になれば、破廉恥であるとお嘆きになるのではありませんか?」

 そう笑いながら、華は近くにあった自らの着物を薫へとかけた。

「茶飯事ゆえ、呆れられております」

「薫殿は見かけに似合わず、お転婆でしたか」

「華様は、ご自身の御心に、身形をお寄せに?」

「否定はしない、が一番は単に動きやすいからです。女子の着物はどうにも動きづらくて仕方がない」

 そう答えながら、華はどうにも目のやり場に困っていた。自らの着物一枚を雑に羽織り、胸元から純白の豊満な毛並を露にする美麗な猫人の姿は、華の感情をかき乱した。華にとって、初めて目にするものの連続であった。つい、たわいもないことを口走る。

「こう見えても、私とて姫ですから、作法などは厳しい父に躾けられましたから」

「身形から人となりは、わかりませんものね。でも、華様のお父上お母上が華様を大層愛らしく思ってらしたことは、華様を見ておりますと感じることが出来ます」

「次に会う時には、両親には感謝の言葉を伝えることとします」

 男のような出で立ちを好むことを、父親も母親も華にとやかくを言いはしなかった。ただ、その出で立ちを好むのであれば、それに相応しい立ち振る舞いはして見せよとは度々言われたものである。口調が男女入り混じったようになったのは、その名残と言えばそうかも知れない。

「ですが、華様ご自身が仰った通り、ここにお見えになった以上、華様はまた一つ立ち振る舞いを学ばれる必要があると言うことになります」

 薫は、そう言って先ほど白猫姿だった時にくわえていた袋を、華の目の前に突き出した。

「分かっている。その相手が、薫殿でよかった」

 華は瞬間、高揚する情とは裏腹に、頭はすっと落ち着きを取り戻した。

「ただ一つ、不躾を承知の上で伺っておきたいことが」

「お答えできることであれば」

「慈徳殿には、子息もいたと記憶しております。薫殿の兄か弟かまでは知り得ませんが」

「兄、慈寧(じねい)がおります」

「なら、何故慈寧殿が、相手とならなかったのでしょうか。わざわざ話し相手などという、名分を用意せずとも」

「私が華様の話し相手を申し出たのは私の意志であり、偽りはありません」

「失礼、モノの申し方を誤りました。私が問いたかったのはそこではありません」

「分かっています。私も、だからこそ父上が聞き入れて下さった所以には、疑問を抱いておりました」

 薫はそう言いながら、袋からさらに小さな小包を取り出す。その中には数錠の丸薬と、緑色の粉末が包まれていた。

「内藤と蒔苗、路仁様と父上との間に何があったのか。その詰まるところを私も聞かされてはいないのです。ただ、父上には父上のお考えがあり、私は私で、我儘を通したく、それが互いに噛み合ったということなのです」

「薫殿の、我儘?」

「同い年の女子というものを、私も知りとうございました。生憎、話し相手に困っていたというのは事実でございます故」

「それが、このような形でも?」

「望むところでございます」

 薫は華にかけてもらった着物をはだけさせて、自らが取り出した丸薬と粉末を口へと含み、華へと体を寄せていく。

 薫の口が華の目の前で開くと、唾液と混ざった薬の匂いが、幽かに鼻を突いた。華は静かに、小さく口を開き、なされるがまま薫の行為を受け入れた。薫は華と唇を重ねると、そのままそのざらりとした舌で華の舌を舐めまわした。

 華の漏れる吐息を聞きながら、薫は華を押し倒す。

「薬は、じきに効きますから、楽になさってください」

 薫の言葉に、華は無言で小さくうなずいた。

 猫人に限らず、多くの種は自らの姿と同じ動物の姿に変じる力を生まれながらにして持っている。猫人なら猫、犬人なら犬。それは草人や森人にはない力であった。

 そしてそれにとどまらず、秘薬と合わせて自らの変じる力を移すこともできる。すなわち、相手をを自らと同じ動物に似た姿に変えることが出来るのである。

「お体、熱くなってきておりませんか?」

 それは、高揚感によって体が熱くなっているだけではないことを華は理解していた。薬が、華の体に巡り渡っているのである。

 覚悟はできていた。猫人の国である宇前の蒔苗家に出されるとわかった時点で、こうなることは分かっていたことだった。だから、受け入れることはできる。けど、それでも、自分の体が自分でなくなっていく、初めて感じるこの感情は、不安は、拭えないものだった。だからこそ、相手が薫でよかったというのは、本音であった。

「大丈夫です、力を抜いてください。自然となじんできますから。ほら」

 薫の言葉に導かれるように、華は自分の体が変わり始めていることに気づいた。絡む中ではだけた着物、その胸元には薫と同じ純白の美しい毛並が生じていた。

 ああ、変わるのか。華はその事実を受け入れる。生まれてから十五年、慣れ親しんだ自分の体が変わっていく。胸から腹へ、背へ、腰へ。毛が生えていくのが見なくても感じることが出来た。体全体を覆っていく経験したことない、言いしれない感覚に、華は身悶えた。

「ほらこれ、なんだかわかります? 華様の尻尾ですよ」

「私の、尻尾……?」

 確かに、いつの間にか尻のあたりから何かが生えていることに、華は言われて気づいた。薫はそれをぎゅっと握ると、確かに触られている感触があった。初めての尻尾の感触に、華はひゃっと上げたことのない声を上げた。

 その間にも華の体は作り変わっていく。毛が覆っていくだけではない。骨格そのものが軋んで、変わっていく。手のひらには肉球が盛り上がり、指は僅かに短くなる。顔も変わり始め、鼻先は前へと突き出し、尖った髭が生えそろっていく。耳は頭の上でピンと伸び、その顔は完全に猫のものへと変わっていた。

 強気に煽っていた薫にとっても、自らの力で他人を猫人に変えたのは勿論、草人が猫人に変わっていく様をまじまじと見るのも初めてだったから、内心大変動揺していたところもあった。だから、華が猫人へと順調に変わっていく様子を見て、最初はほっとしていた。しかし、顔が変わり始めたあたりから、薫は言葉を失っていた。

「薫殿……私は、ちゃんと、変われたでしょうか」

 薫は、戸惑っていた。相手を自分と同じ種に変える秘術。薫にとっても初めて使う術。その結果に、薫は戸惑っていたのだ。

「薫殿?」

「いえ、その……お待ちください。姿見をお持ちします」

 薫は慌てるように部屋の奥へ行き、大きな姿見を華の前へと置いた。

「この秘術は、それ性質ゆえ、変えた相手の姿は自分によく似ることは多々ある事であると聞いてはおりましたが、しかしこれは……」

「これは……まるで……」

 華もまた、姿見を見て、自らの姿に驚いた。姿見に映っていたのは、純白の毛並を持つ愛らしい猫人の姿であった。それは、勿論不思議な感覚であったし、そのことへの高揚感も確かにあったが、それを一瞬で吹き飛ばしてしまうような事実が、姿見の向こうから覗き込んでいた。

 翡翠の瞳。姿見に映る猫人もまた、その瞳を輝かせてこちらを見つめていた。その目、その顔、その毛並。その全てが、自分の横にいる猫人の姫と、薫とあまりに似すぎていたのだ。

「これは、私と薫殿が、まるで双子のような……」

「こんなに、似ることがあるなんて、聞いた事がございません……」

 翡翠の瞳を持つ二人の猫人が互いに顔を見合わせると、それもまたまるで姿見の様相を呈していた。この時の華はまだ、自分にかけられた本当の願いが、その呪いが何であるのかを知る由もなかった。


 華が猫人の姿になった夜が明けてのこと、華は薫の着物を借りて身形を整えると、慈徳に挨拶へと伺った。

「慈徳殿、おはようございます」

「奥姫様。新しいお姿、気分はいかがですかな」

「違和はあります。自分の手を見ても、白い毛で覆われているとなかなかこれが自分の手であると言うことを認識できないものですね」

「最初はそういうものです。じきに慣れましょう。しかし、失礼ながら、愛らしいお姿になられたものです」

「はい、しかし慈徳殿。お気づきのことと思いますが、この姿はあまりに薫千代殿に似すぎてはおりませんか」

 華は、感じていた疑問を率直に慈徳へと投げかけた。身支度をしている時、薫の着物を借りて姿見に自らの姿を映してみた時、その感想は昨晩にも増して一層強くなっていた。

「薫千代が術をかけたのですから、そういったこともございましょう」

「慈徳殿。自ら言うことはございませんが、私とて無学なつもりはございません。はぐらかされるご事情がおありなのですか?」

「奥姫様は、これより蒔苗の一員となる身でございます。薫千代と瓜二つであると言うことは、都合がいいという面があるのは事実でございます」

 純白の老猫は、表情を変えることなく華の問いに答えた。

 華は、蒔苗家の一員になる。それは状況として華自身も分かっていることであった。情勢が悪化する恐れのある、即ち存続が危ぶまれる内藤家を出て、より安全な蒔苗家に移った時点で、そのことは既定路線であった。内藤の者であった過去を捨て、蒔苗の者として今後生きていくために、この姿となったのだ。その立場はわきまえている。

 が、蒔苗慈徳には息子もいる。元々華はその息子である慈寧に嫁ぐものだと思っていたのに、実際あてがわれたのは娘の薫だったことが、そもそも疑問ではあった。そして今、華のその姿は薫によく似た姿となっている。似ている、という程度ではない。生き写しであった。柔らかな毛並も、しなやかな尻尾も、美しい翡翠の瞳も、薫の姿そのものだった。

「事前に話は聞いており、承服もしております。私はこれより慈徳殿の娘となる身。慈徳殿に、薫千代殿に似ているということが好都合であると、それは事実でございますが、しかし慈徳殿。薬で、術で、姿の程度など変えることが出来ても、全く同じ姿にすることなど、できようはずがありません。変ずる本人の、資質がありましょう」

「路仁殿に、厳しく、賢く育てられたということがよくわかります。然るべき時が来れば、然るべきお話は差し上げるつもりです。しかし、今は、治めていただきたい。路仁殿を、お父上を想えばこそです。わかりましたかな、奥姫様。いえ……我が娘、華千代(はなちよ)」

「……わかりました。お父上」

 華千代の名を与えられた華は、ぎこちなく首を縦に振ると、部屋を立ち去ろうとした。が、今一度慈徳の方へと振り返り、その表情を確認した。その表情は、まるで本当の我が子を愛おしく見つめるような、慈愛に満ちた表情であった。

「もう一つだけ、よろしいですか。お父上」

「構わないよ、華千代」

「私は父上、内藤路仁に拾われた身。己の本当の出自を知りません。お父上は……慈徳殿にお心当たりは」

 そう問われて、慈徳は初めて、ほんのわずかではあるが、息をのみ、言葉に詰まったようにも見えた。

「知らぬとは言わぬが、それもまた然るべき時に話そう。が、既にそれが、答えになってしまっているかもしれないな」

「いえ、改めてお話いただける日を、待ちわびております」

 華は深く頭を下げ、今度こそ本当に慈徳の部屋を後にした。

 華は、概ね理解した。自分の出自を、内藤路仁と蒔苗慈徳の間で何が約束されたのかを、察した。察してしまった。

「華様。お父上へのご挨拶が御済になったのですね」

 廊下を出て自らの部屋に戻ろうとしていた時に、偶然薫と出会った。華の頭に、昨晩自分を誘った薫の艶やかで積極的な姿が一瞬ちらついたが、今の薫が見せる純真で、天真爛漫な表情もまた、ある意味で昨晩の表情と大きな変わりはないのかもしれない。良くも悪くも、その無垢さこそが、彼女の魅力を一層引き立てているのかもしれない。

「ああ。慈徳殿、いやお父上から華千代の名を賜った。私は正式に薫殿の姉妹ということになります」

「では、お祝いをした方がよろしいでしょうか」

「いや、お気持ちだけで。もっと言えば、私は蒔苗家の者になったのではなく、最初から蒔苗家の者であったことの方が、お互い都合もよいでしょう。内藤路仁の娘であることを、頑なに秘密にする必要は無いかもしれませんが、公にはしない方がいい。特に内藤と争っている東条(とうじょう)、羽生(はぶ)らに知られれば、此度のことも水泡に帰しましょう」

「かしこまりました。では、最初から姉妹のようにふるまうのがよろしいのでしょうね。華姉様」

「私が姉? 薫殿が私の姉の方がよいのでは」

「いえ、こう、なんと申し上げればよいのか。華姉様は、姉様って感じがするのです。自分でもよくはわかりませんが」

 そう言われ、華は押し黙った。あるいは、きっと薫のその感じ方は、本能めいた何かなのかもしれないと思っていた。

 慈徳との挨拶を終えて、華には一つの仮説が既に出来上がっていた。確証はないけれど、きっとその仮説は正しいはずだ。

 そうだとして、昨晩自らの中に芽生えてしまった、薫への感情をどう扱うか、華は大いに悩んでいた。華は、薫のその美しい姿に、愛らしい仕草に、そして時にませた大胆な言動に、すっかり心を奪われていた。男の格好こそすれど、自分の心は乙女だと思っていた華は、しかし突如現れた愛おしい者を目にして、自身の感情を偽ることが難しい状況に陥っていた。

 しかし、もし仮説が正しいとすれば。

 つまり、華は元々蒔苗慈徳の娘であり、幼少の頃に内藤路仁に預けられ、草人として育ち、今再び何の因果か慈徳の元へ戻った今この状態が、あるべき血のつながりとしての在り方なのだとすれば。

 単なる調略や敵を欺くための演技などではなく、真に薫と華が双子なのだとすれば。華は自分の感情のやり場を失いかねない。華はそれを恐れた。

「華姉様?」

「あ、いやすまない。薫殿が、それで構わないのなら、私は薫殿の姉になりましょう。何の因果か、容姿もよく似たことです。愛らしい薫殿の姉になれるなら、光栄です」

「愛らしいだなんて、そんな。それなら華姉様だって。ふふ、なんだか、不思議な感じです。お父上もお母上も、私に似ておられましたが、華姉様は私と本当にそっくり。きっと、私の着物もよくお似合いになると思います。内藤家が落ち着かれるまでの日々ではありますが、何だか楽しい毎日になりそうです」

「私も、楽しみにしているよ。薫」

 微笑みあった双子の白猫姫たちは、「ではまた後程」とあいさつを交わすと互いの部屋へと戻っていった。華は、薫がどこまで事実に気付いているのか、気になっていた。昨日の様子からして、慈徳から、薫に姉妹がいるかもしれないというような話であったり、あるいは華が薫の本当の姉かも知れないというような話は、されてはいなかったのだろう。

 本当のことを知ったら、薫はどう思うだろうか。部屋に戻った華は、そのまま床に伏し、身悶えた。

 あの愛らしい白猫姫薫千代が自分の妹であり、自身もまた彼女と同じ容姿を持つ白猫姫華千代としてこれから過ごしていくのだ。蒔苗家に出される前に想像していた日々とは、どうやら大分異なるものになりそうだと言うことを、華はしっかりと自分に言い聞かせた。

 かくいう薫もまた、自室へと戻り、床に伏していた。

 兄である蒔苗慈寧は、やさしく、思慮深く、頼りがいのある人で、文武を心得た才溢れる人物であった。しかし、兄への思いは憧れに過ぎず、それ以上の強い感情が芽生えることは無かった。兄は兄。割り切っていたし、異性では結局、薫の内面の機微を分かってもらうことが難しいことも十二分に分かってしまっていた。

 だからこそ、薫は奥姫明華の話し相手を熱望した。そして実際会ってみれば、兄に似た文武に秀でた才女であり、凛々しく、男以上に逞しく、それでいて乙女の柔らかさを併せ持つ、まさに理想の女性だった。薫もまた、華に惚れていたのだ。

 その華が、自身の術で猫人となり、まさか自分と瓜二つになるとは思わなかったし、そうなってしまうと何だか形容しがたい恥ずかしさもあったが、それ以上に華の存在は、兄では叶わなかった自分の機微を受け止めてもらえる同性の存在、つまり姉として理想的であった。理想的であり過ぎるがゆえに、薫もまた悩んでいた。

 しかし、薫は華とは違った。華の生い立ちを知らないのだから、よもや華が本当に自分の双子の姉であることなど、考えもしなかった。

 かくして宇前の蒔苗家での、白猫の双子姫の日常が始まったのである。

 華にとって蒔苗家での日々は、内藤家に迫っている危機とは裏腹に、平和で、穏やかで、幸せな日々だった。慈徳の妻、つまり華の実の母親かも知れない人は、既に病で亡くなっていることを聞かされ、なおのこと薫が誰かに甘えたがる所以も理解したが、華は彼女をできる限り受け止めようと決めていた。程なく戦で外へ出ていた兄、慈寧も無事に戻り、家族が揃い、本当に、本当に平和な日々だった。

 一ヶ月ほど経ったある夜、薫が華の部屋を訪ねてきた。

「華姉様も、大分そのお姿に慣れたころと思いまして」

 薫が手にしていたのは、以前華を猫人の姿に変えた時と似たような丸薬と粉末であった。

「気を使わせてすまない。私もそろそろ薫に相談しようと思っていたんだ」

「本当はもっと早く切り出そうと思っていたのですが、華姉様は兄上と鍛錬ばかりで」

 少し不貞腐れたような表情をわざと浮かべる薫を見て、華は笑った。

「焼きもちを焼かせてしまって申し訳ない。私も、兄上も、蒔苗を担うものとして、武の道を成したいという気持ちばかり逸ってしまってな」

 蒔苗家の嫡男である慈寧は、当然家督を継ぐことが決まっており、故に家を守るものとして鍛錬を欠かさず、求められる戦には出向いて名を上げていた。そんな慈寧にとっても、女子でありながら腕の立つ華の登場は、願ったり叶ったりであった。短い間に、華は慈寧にとって最高の練習相手となっていた。

「ですが、息抜きもなさいませんと。そのための私ですから」

「分かっている。それに私も、猫人の自分を受け入れるために、なすべきことは全てなさねばならないと分かっているからな」

「はい。では、心の準備がよろしければ、お着物をお脱ぎになって下さい」

 そう言われて華は一瞬固まった。いや、当たり前なのだ。これからすることを考えれば、まして初めてで勝手がわからないのだから、着物は邪魔である。分かっているが。

「あ、いや、そうだな。分かった」

 そう言って華は着ていた着物を一枚一枚脱いでいく。そうして一糸纏わぬ姿となった華は、ちらりと姿見の方を見る。見慣れたつもりでも、やはりまだ少しだけ不思議な感じは抜けていない。姿見に映るかわいらしい猫人が自分であるというのが。草人の頃の自分の面影を探すのは難しい。

 だが、今からはもっと草人の姿からかけ離れていくのだ。感慨に浸っている場合ではない。

「犬人なら犬に、魚人なら魚人に、そして猫人なら猫になれて、一人前にございます」

 薫また一糸まとわぬ姿になって、そう言いながら、あの時と同じように口に丸薬と粉末を含み、自らの唾液と混ぜ合わせる。ただ、心なしかあの日の大胆さに比べると、少し大人しい様にも見えた。

「それでは、華姉様、よろしいですね?」

「う、うむ」

 白猫の双子姫は、向かい合って、そっと互いの両手を握りあいながら、体を寄せ、豊満な毛を蓄えた胸を重ね、顔を寄せ、そして、唇を重ねた。華は薫の腰に手を回し、引き寄せるようにして、後ろへと倒れこんだ。見上げると、自分と同じ顔の猫人が、翡翠の瞳を輝かせながら恍惚の表情で自分を見つめていた。

「お慕い申しております」

 そう言って再び、薫は華と唇を重ねた。華の胸中に去来するのは、背徳感だった。結局まだ、自分が薫の本当の姉かも知れないことを、薫には伝えられずにいた。だからこそ華は、その後ろめたさをぐっとこらえて、薫の想いと、体を、受け止めた。

 体を捩らせながら、二人の体は徐々にその形を変えていく。

 腕が、脚が、そして全身が徐々に短く、小さくなっていく。二足歩行よりも四足歩行に向いた体へと、骨格が、筋肉が、作り変わっていく。

 漏れる声も、徐々に高くなっていき、ただの獣の声へと変わり果てていく。互いへの感情の高ぶりと、体が作り変わっていく熱量と、薬の効果が入り混じり、二人はやがて、二匹となる。

 果たして、そこにいたのは息を切らせた純白の毛をもつ、かわいらしい若い雌猫二匹であった。華だった白猫は、ようやくすべてが終わったことに気づき、自分の手を見た。しかしそれはもう手ではなく前足だった。猫人の時よりもさらに短くなった指ではもう物は持てないだろう。ものを掴むのではなく、地や獲物を掴むのに適したその前足を見て、ああとうとうここまで来たかと、強く感じていた。

 やがて薫だった白猫がすっと四つ足で立つと、華だった白猫を誘うように尻尾を揺らして、窓べりにひょいと上った。華だった白猫は慣れない四つ足で何とか歩きながら、薫だった白猫のいる窓べりにぴょんと飛び乗ろうとするが一回ではうまく飛ぶことが出来なかった。しかし、持ち前の勘の良さなのかあるいは、持って生まれたものなのか。すぐにコツを掴むと、薫だった白猫の横にピタリと着地して見せた。

 薫だった白猫はまた、華だった白猫を誘うようにして庭に出て、柱を登り、屋根に上き、華だった白猫もまたそれを追っていった。

 猫の姿では、当然人の言葉を喋ることはできない。猫同士通じるような特別な力もない。けれど、相手の表情と、仕草と、においで、何が言いたいのか大体理解できた。華にとってその感覚は、新鮮なものだった。

 やがて城の天守閣、その屋根に二匹で登り終える。そうして眼下に見えたのは、宇前の城下町。そして天には一面の星空と、一際強く輝く満月だった。

「にゃ……!」

「うにゃ」

 美しい光景に、思わず感嘆の鳴き声を漏らした華だった白猫に、薫だった白猫は優しくもたれかかるように体を寄せた。

 この戦乱の世、この美しい月の下でも、戦は毎日のようにどこかで起きている。でも、この静けさ、美しさを目にすると、そんなものはまるでないかのような、泰平の世ではないかと思えてくるほどだった。

 二匹の白猫は身を寄せながら、しばし静かに光景に見とれていた。こんな日々がずっと続けばいいと、願いながら。

 でも、華は知っていた。願いは、呪い。そして望んでも叶わぬこともあることを。

 華の元に、盤奥城包囲の報せが届いたのは、それから半年ほどたったころだった。


 丞応七年。内藤路仁が治める盤奥国に、西方の鶴河国(つるがのくに)と信太国(しだのくに)の二国を納める草人の武家、東条正胤(まさたね)率いる軍勢が攻め入った。霧国(きりのくに)の初瀬寄親(はせ よりちか)、敦摩国(あつまのくに)の羽生照慶(しょうけい)もそれに加わり、都東屈指の大勢力となった大軍は、半月かからずに盤奥城を包囲した。

「父上、何卒聞き入れてはもらえぬか!」

「ならぬと申している。華千代、そなたは蒔苗家の者。それを承服した上で、ここにおるのではなかったか」

 蒔苗家の一員となった華であったが、育った家である内藤家の一大事と聞いて、その心中は穏やかではなかった。このような時が来ることに備えて、華は内藤の家と明華の名、その姿を手放し、今白猫の姫として、蒔苗家の華千代としてここにいるのである。わかってはいた。理解はしていたつもりだった。しかし、事実こうして内藤家の危機を前にして、己の無力さを思い知らされると、華はいてもたってもいられなかったのだ。

「蒔苗からも内藤に支援を送っている。これから慈寧も出す。座して待つのだ」

「兄上に、慈寧殿にもし万が一のことがあれば、それこそ内藤は蒔苗に詫びる術を持ちません! このような時だからこそ、私をお使いください。不肖この華千代。男であれば、元服を迎える齢にございます。此度の戦、初陣とさせては頂けますまいか」

 華の強い申し出に、慈徳は顔を曇らせた。もはや言って聞くような状況ではないことを分かっていた。しかし、慈徳も簡単には引き下がれずにいた。

「華千代は、俺の良き鍛錬相手となってくれている。引けは取らないだろう」

 華に助け船を出したのは慈寧であった。鍛錬で日々華の刀捌きを、弓の腕を見ている慈寧の率直な感想は、強い説得力をもたらした。が、慈徳にとってはそういうことではなかった。

「武の心配はしておらん。これは、路仁殿との義にある。何のため私が華千代を受け入れたのか。どんな思いで路仁殿が愛娘を手放したのか。親の身でなければ、分からぬことだろうか」

 慈徳の言葉も尤もであることを、華は理解した。だからこそ、自分の言葉を理解してくれぬ慈徳に苛立ちを募らせた。

「父上の華千代を想う気持ちはわかる。華千代の内藤を想う気持ちもわかる。正しい理解かは分からないが、把握はしているつもりだ。だが、俺も蒔苗を背負う身。そのそれぞれを果たし得る力量が問われている。ならば、華千代は俺が見張ろう。華千代は俺を守れ。華千代の言うとおり、華千代も男なら元服の齢だ。指をくわえてみているだけの軟弱な武人であるなら、俺も華千代も蒔苗や内藤を継ぐ資格などない」

 慈寧は優しく、思慮深い人間ではあったが、時に謀略をも用いて蒔苗を維持してきた慈徳と異なり、武を以て示すことを信条とする、武人らしい武人だった。この年、慈寧は齢二十一にしてようやく妻も迎え、心身共に充実している時期でもあった。

 そしてその事実は、既に老いを迎え始めた慈徳よりも、言葉の重みを有し始めることになっていた。

 結局、折れたのは慈徳であった。慈寧と華は盤奥城に籠る内藤家の支援として五百の軍勢を率いることとなった。

「華姉様も、戦へ?」

 出陣前の華を見舞ったのは薫であった。

「父上よりお許しが出た。盤奥へ向かう。宇前の蒔苗華千代として、内藤への義を通す」

「兄上だけではなく、華姉様まで戦に行かれるなんて、私は如何にして心を持ちましょうか」

「兄上も私も、蒔苗を背負う身。無事に戻ることを誓おう。薫、だから済まないが、信じて待ってほしい。そして、いま少しだけ、私の弱さに目を瞑ってほしい」

 華はそう言って、薫の胸に飛び込むようにして抱き着いた。気丈に振舞おうと、華はまだ十六の女子なのだ。戦も怖ければ、育ての父を失うことはもっと怖かった。薫の柔らかな毛並が、華の不安な心をわずかだが和らげた。その感じに華は、どこか懐かしさを感じていた。あぁ、あるいはまだ見ぬ蒔苗の母に、赤子の頃こうして抱きかかえられていたのかもしれないなと。

「私は、薫千代はお待ちしております。また、こうして華姉様を抱きしめられることを、本当に、心から、お待ちしております。だから、どうかご無事で」

 数刻の後、慈寧と華は兵を連れて盤奥へと向かった。すぐにでも盤奥へとたどり着けるよう急いてはいたが、兵の士気にもかかわる事ゆえ無理を通すこともできず、道中の宿でわずかな休みを取りながら進んでいた。

「父上が渋っていたのは、諸国に華千代の存在が明らかになる事も嫌ってのことだろう」

 会話の中からその話題を振ったのは、慈寧の方からだった。

「薫と私の容姿が似ていることは、ある種の札であることは、私も理解しています」

「それをふいにしてまで、お前の気持ちを汲んだ父のこと、分かれとは言わないが、感謝はしてやってほしい」

「心得ております」

「しかしそれにしても華千代は、薫千代に本当によく似ている」

「父上は、薫千代がかけた術ゆえ、そういうこともあるだろうと」

「なるほど、とんだ方便だ」

「お気づきで?」

「話が上がる前から耳にしていた。盤奥の奥姫。男顔負けに文武に通じ顔も気立てもよい。それに蒔苗と内藤の関係だ。あるいは俺がお前を迎えていてもおかしくはなかった」

「兄上には御前様が」

「今となっては、結果としてそれでよかったと思っている。俺には、実の妹を迎える気概も趣味もない」

「それもまた、ご存じで」

「直接聞いたわけではないが。うっすらと、薫千代に双子がいたかもしれないなという記憶もある。そして、奥姫の生い立ちも噂を聞いていた。そういうことだろうというのは想像に難くない」

 慈寧もまた、華の身に起きている大筋を理解していた。ゆえに慈寧には、父である慈徳が自らに奥姫明華を嫁がせなかったその理由を察した。

「それに、薫がお前に惚れていることも知っている。というか、これは知らぬ方がおかしな話か」

「生憎、自分の趣味に惑っております。互いに」

「否定はしないよ。俺にはない趣味だというだけだ。来てくれて感謝もしている。華千代が来てくれて、薫千代は一層明るくなった」

「大人しそうな見かけによらず、お転婆で驚きました」

「似たもの姉妹と言うことだ。あれもお前もよい女だ。どのような形であれ姉妹同士、これからも仲良くしてやってほしい」

「心得ました。しかし、それにしても兄上も珍しく今日は饒舌で」

「お前が妹に甘えるのなら、俺だって妹にこうして話を聞いてもらうくらい、甘えたっていいだろう。命のやり取りをするのだ。俺も心のない駒などではない。怯えもするし、竦みもする」

 慈寧はそう言って恥ずかしげに笑って見せた。華は慈徳を父として敬愛はしているが、常に難しい顔を浮かべている慈徳の人望については、気がかりだった。対して慈寧の、誰に対しても気さくな振る舞いは、あるいはこれからの時代に求められる素質なのかもしれないなと感じ、なおのこと蒔苗のためにこの方を失ってはいけないなという気持ちを強く抱いた。

 しかし、慈寧の覚悟も、華の覚悟も、それぞれ肩透かしを食らうように、最悪の報せが明朝届いた。

「何と、今何と申したか?」

「華千代、落ち着け」

 慈寧と華の前で、伝令が頭を下げて黙した。華は落ち着くことが出来ず、立ち上がり伝令に詰め寄った。

「今何を申したのかと聞いている!」

「はっ……未明に盤奥城の門が破られ、落城。内藤路仁様は、城内にて、自刃なされたと」

 今度ははっきりと、華の耳にもその言葉は聞こえていたはずだった。しかし、どうにも言葉が入ってこなかった。あるいは、拒絶しようとしていたのかもしれない。だが、時間が過ぎるごとに、その言葉は砂に染み入る水の様に、華の心に、拭うことなどできぬほど深く入り込んでいく。理解し難い言葉を、理解してしまう。

「見栄を切って城を出ておきながら、戦に出ることも叶わず、親を助けるどころか、死に目に立ち会うことさえ許されないのか! 斯様な仕打ちが、辱めが、あろうことか!」

「華千代。落ち着けと言っている」

「私は、何のためにここにいるのだ……このようなこと……こうなれば、今すぐにでも弔わねば……!」

「落ち着けと言っている!」

 あまり聞かない慈寧の大きな声に、華はようやく、ほんの少しだけ、冷静さを取り戻した。

「父上が、育ててくれた父親が、命を奪われたのだ。落ち着けるものか!」

「落ち着けないからこそ、心得て落ち着かせろと言っているのだ」

「兄上には、父を失っていない兄上にはわからないのです!」

「そうだ、だから俺は冷静だし、落ち着いていられる。落ち着いているから、言える言葉もある。それがわからないほど、お前は愚かな猫か?」

 華は黙った。自分を賢いなどとは、驕ってはいないつもりだが、愚かでもないと思っていた。だからこそ、慈寧の言葉は華に刺さった。

「取り乱す気持ちも、すぐにでも弔い合戦に臨みたい気持ちもそうなることは分かっても、その本当のつらさは推し量りかねる。それは、済まないと思う。だが、五百の兵に何ができる? この数は、盤奥城が健在で、反東条諸国との協力があって初めて意味を成す。連携も取れぬ今、悪戯に兵を失うことはできない。命を賭すとは、命を惜しまぬとは、そういうことではない。弔い合戦は、一旦城に戻ってだ。盤奥が落ちた今、諸国も東条を捨て置けないだろう。手立てはあろう。聞き入れないのなら、次の戦には連れて行かないぞ」

 慈寧の言葉に、華は黙って従った。

 慈寧と華は兵を引き連れて、宇前へと戻った。戦に挑まず、義を果たせず、おめおめと兵を戻ってきたことに一部の家臣は不平を述べたが、若と姫、何より兵たちが無事に戻ってきたことの方が重要であった。

 華は、その日の夜に自分の部屋に薫を招き入れ、ぽつりぽつりと言葉をこぼし始めた。

「このような形で自分の無力を感じることになるとは思わなかった。結局私は、どちらの父上の気持ちも、兄上の気持ちも、兵たちの気持ちも、汲み取り、寄り添い、遂げることが出来なかった。それを辱めだと憤った。兄上だって、悔しかったはずなのに、その様子をまるで見せず、将として振舞って見せた。私は、ああはなれない」

 父を喪った悲しみに、認めてくれていた兄との大きな器の差を見せつけられ、華は珍しく参っていた。

「兄上は、蒔苗の良き導き手となりましょう。ですが、そのためには華姉様も私も、兄上を支えていかなければなりません」

「私に、何ができるだろうか」

「華姉様の文武は、兄上も御認めになるところ。それに、戦の場に愛らしい姫がいると言うことは、兵の士気も高まりましょう」

「愛らしいって、自分の姿だぞ」

「では、華姉様はご自分の今のお姿、愛らしくないとお思いで?」

「まさか」

「なら、そういうことにございます」

「悲しげに送り出してくれたかと思えば、戻ってきた途端こうか。薫は、甲斐甲斐しいな」

「私こそ、今は華姉様の心を、和らげることぐらいしかできませんから」

 強気な言葉とは裏腹に、薫の表情はずっと、不安げで、寂し気だった。薫もまた、怖い思いをしたのだ。兄と姉、同時に失ってしまうかもしれないという、怖い思いを。

 この日はただ静かに、二人は身を寄せ合った。初めて大切な人の死を体験した華

 翌朝、慈徳は慈寧、華、薫を呼び、改めて内藤の顛末を伝えた。

「今際の路仁殿が家臣に文を託されたそうだ」

「父上が?」

「華千代。既に分かっていることかもしれないが……真実を聞いてくれるか」

「心して」

 そうして慈徳は、路仁との関係を話し始めた。

 華と慈寧の想像は、概ね当たっていた。華と薫は、慈徳の正室の娘として、実の双子としてこの世に生を受けた。しかしそれからすぐ、かつて蒔苗が他国に攻め入られた時に、慈徳は華を内藤に差し出すことで、内藤の助けを引き出したのだった。以降華は猫人の秘術を流用し、草人の姿となって、内藤家の姫として育ったのだった。しかし、今度は内藤の情勢が危うくなり、路仁は慈徳に娘を返すことを提案した。しかしそれは、助けを引き出すためではなく、娘の安寧を想っての行動であった。

「路仁殿は、東条の勢力増大を前にして、内藤家の存続が困難であろうと予期したのだ。もとより、路仁殿は子宝に恵まれなかった。華千代に、明華に城を継がせ婿を取る事ももちろん考えはしたが、路仁殿は、華千代は内藤よりも蒔苗にこそ、その力を活かすべきであると考えられた」

「何故、秘匿なされたのです? 仰っていただいてもよかったことだと」

「それも路仁殿との取り決めであった。あるいは、内藤が無事存続できた暁には、戻すことも考えてはいたのだ。きれいごとではないし、路仁殿が華千代を本当の娘と思っていたのは事実であった」

 聞いてしまえば、それはその通りなのかもしれないという話であった。だが、父を喪った今その話を受け止めるのは、華は少しだけ、難しかった。

「申し訳ありません」

 一言ぽつりとつぶやいて、華は席を立った。外の空気を吸って、天を仰いだ。なおのこと、強くならねばならないと、内藤亡き今だからこそ、華は内藤のために、そしてそれ以上に蒔苗のために、心血を注がねばならぬと、改めて誓った。

 一方、この事実に少し戸惑っていたのは、薫であった。席を立った華を追って、薫もまた外へと出て、華の横へ並び立った。

「路仁様は、華姉様のことを、本当に想ってらしたのですね」

「そうだな。蒔苗に出されて、果たしてと思っていたところもあったが。ただ、その感謝と詫びを言うことさえ叶わないのは、どうしてよいのか」

 薫は、かける言葉を迷っていた。軽はずみに何かを言っていい立場ではないことを、弁えてはいた。

「薫も、聞きたいことがあったから追ってきたのだろう?」

「その、華姉様は、ご存じだったのですか?」

「私たちが、本当の双子であることをか?」

「はい」

「確証はなかった。ただ、そうなのであろうという、確信はあった」

「私は、惑っております。華姉様が、本当に、本当の姉上であるなんて、それは」

「それは、不服か?」

「そんな滅相も! ただ、どう、気持ちを、どうすればよいのか。私にはわかりません。ただ」

 ただ、薫には思っていたことがあった。

「ただ、華姉様が本当の姉であればよかったと、華姉様が来てからずっと、思っておりました故、それが夢ではなく現だとわかり、その気持ちは、嬉しい気持ちであるのは確かです」

「そうか、そうだな。ここに来ていなければ、内藤にいれば、仮に生き延びたとしても私は、孤独の身となっていた。だが、私にはここに家族がいる。それは、嬉しいことなのだ」

 自らを育ててくれた、内藤家はもう存在しない。悲しみに暮れている場合ではないのだ。

「薫、私は今この日こそ、改めて蒔苗の者として、父上の娘として、兄上の妹として、何よりそなたの姉として、相応しくなれるよう誓おう。それが私の、二人の父への報いとなるだろうというのは、私の勝手かもしれないが」

 華は、いま改めて、自分が内藤華千代となったことを実感していた。内藤家亡き今、もはや、自分の顔を知る者も少なくなってしまった。もとよりここは、蒔苗は華千代の生まれた家なのだ。

 草人ではなく猫人として。内藤ではなく蒔苗として。奥姫明華ではなく、猫姫華千代として。一年経たず、随分と変わったものだ。立場も、姿も。

 育ての親、実の親、兄、妹。背負う願いも随分と増えた。

 そして、願いは呪いだ。その願いは、華自身をこれから縛り続けるものだということを、華は理解した。

 その呪い一つ一つと、華は向き合っていくことになる。呪いを憂うばかりの、聞き分けのない子供ではもういられないのだ。あるいはそれもまた、呪いなのかもしれない。

「私も、華姉様と兄上の支えとなれるよう、共に歩んでまいります」

 ただ、その呪いに一人で立ち向かうわけではない。共に立ち向かう、最愛の妹がそばにいてくれる。その事実は華にとって何より大きく、かけがえのないことであった。

 こうして、後に猫の国を背負う双子姫の、願いに立ち向かう日々が始まるのだった。戦乱の、更なる激化とともに。

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この小説を書いた人

宮尾武利

ATRIダイレクター。獣化作家。

「獣化がまだ好きではない人に獣化を好きになってもらうため、獣化を好きな人にもっと獣化を好きになってもらうため」をモットーに、獣化について様々なアプローチを試みている。

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